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おいしそうな草
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 岩波書店 |
発売年月日 | 2014/03/22 |
JAN | 9784000259552 |
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おいしそうな草
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商品レビュー
4.7
3件のお客様レビュー
いい本えらんだなぁ、と自分を褒めてあげたくなった本。タイトルは『おいしそうな草』だけど、私にとっては「おいしい草子」だった。噛み締めて、味わえる。 詩人による詩評というのは、詩の言葉を詩の言葉で打ち返すラリーのようで、散文的に切り裂かれる無惨さが無く、柔らかで、読みながら宙に漂...
いい本えらんだなぁ、と自分を褒めてあげたくなった本。タイトルは『おいしそうな草』だけど、私にとっては「おいしい草子」だった。噛み締めて、味わえる。 詩人による詩評というのは、詩の言葉を詩の言葉で打ち返すラリーのようで、散文的に切り裂かれる無惨さが無く、柔らかで、読みながら宙に漂うような気分にさせられる。着地点があるような、ないような。見定めるのが惜しいような。 難解というのではない。わかりやすいというのでもない。ただ、詩への想いとともにゆっくり差し出される文字と文字との間で、いつまでも浮かんでいたいような気持ちにさせられる。ゆっくり読みたくなるテンポを保つ文章に、久しぶりに出会った。 詩評以外にも、読みどころは多い。一文一文にたしかな味わいと手応えがあり、ゆっくり読む楽しさを取り戻してくれる。決して濃厚だったり重厚だったりするわけではないのに、しっかりゆっくり、噛み締めて読み味わいたくなる。 帯にもあるけれど、 ーー沈黙の日、更地に似た日にも、やがて、草のように言葉は生えてくる。(p.158) の箇所などは、何度も読み返してしまう。 そういえば、味読、とか、熟読、とか、久しくしていなかったと思いだす。それだけ速読、粗読が癖になっている私がペースを落として読める、というだけで、すごく価値のある本だと思う。 最上の読書ガイドでもあり、本好きさんには是非、とお薦めしたい。 無駄なものと価値あるもの。ビーズと宝石を、普段、私たちはより分けて生きている。詩は、その2つの箱をひっくり返してくれるものだと知る。玉石混淆、とは無駄なものと価値あるものとの混在をいう語だが、詩の世界に玉と石を分け隔てる眼鏡はないらしい。掌に乗せて賞翫する目には、プラスチックも小石も光を放つ。子どもの頃に幾度となく集めた、道路傍の黄銅鉱。掴み取りのビーズ。祖母にもらったおはじき、ビー玉。暮らしの魔力が片付けて、おもちゃにしてしまうものたち。詩は、それらこそもしかしたら本物だったのかもしれないよ、と囁きかける。ひっくり返る宝石箱、おもちゃ箱。目の前で混ざり合う。ひとつひとつつまんで見る。これはビーズ?これはルビー?わからない。わけるのが難しい。真贋を見極められない未熟さゆえなのか。それともわからなくてもいいものなのか。そもそもわけなくてもいいものなのか。包み紙を執拗に取っておく祖母。履き切れないほどの靴を蒐集した独裁者の妻。食べられもしない財宝の上に眠る龍。詩の世界で、彼らは皆、等価なのか。 「通常の文脈」が途切れたところで湧き出してくる自分の言葉に、今までにない膨らみが感じられる。何という、読書効果。 良書は言葉の呼び水になるらしい。
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表題を気にしながら、「言葉と草の葉」を思い浮かべながら読み進む。詩人である著者は、日常生活の中で様々なものたちに出会うたびに、過去の会話を甦らせたり、詩や小説を思い出したりしながら、「ことば」の不思議な世界に誘われている。 「慣れることがもたらす穏やかさは、感覚の死でもある...
表題を気にしながら、「言葉と草の葉」を思い浮かべながら読み進む。詩人である著者は、日常生活の中で様々なものたちに出会うたびに、過去の会話を甦らせたり、詩や小説を思い出したりしながら、「ことば」の不思議な世界に誘われている。 「慣れることがもたらす穏やかさは、感覚の死でもある」(詩と唐辛子) 「ここでいう出会いとは、現実のなかを流れていく物事が、ぱっと割れて芯を見せる、そんな瞬間のことだろう」(みんなの蜜柑) 「美は網の出口だと著者(イエイツ)はいう。つまり、はっとさせられ、心を持ち上げられるようなこと」(時計が止まる) 「言葉はその一切を捕獲しようとする。できない。できなくても、やめない。言葉はいつも追う。狩りのすがただ」(狩りのすがた) 「雑草に言葉はない。<私>を通して、それは言葉になろうとする。というより、もっといえば<私>が雑草になりかける。言葉がそれを押しとどめる」(おいしそうな草) 「文字のない時代のことを、いま文字を通して考えるとは、なにをしていることになるのだろうか」(旧石器) あとがきで、この文集が連載された際のタイトルは「ことばに映る日々」だったとある。さらに、この本の表題となった「おいしそうな草」という言葉は、『古事記』(上つ巻)に人間を表す言葉としてたった一箇所だけ出てくる「青人草」に触発されて生まれたことも明かされている。 日本人は、『古事記』で人を草に見立て、『万葉集』では葉に見立て、古来から自然とともにある存在として<言の葉>を発して来たことに気づかされる。 キリスト教にあっては、『旧約聖書』のイザヤ記(64章)で人を泥塊に見立てていることを思う。陶工である神により形作られるのが人間というわけだ。 「人はおいしそうな草であることが、できるか、どうか」というこの著者の思いに親しみを覚えてしまう私には、やぱり日本人の血が流れているのだろうか。それとも日本語を覚えたからそう感じてしまうのだろうか。 私もまた、著者に誘われて、いつの間にか、言の葉の叢に迷い込みつつあるらしい。
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『「書くまい」とする衝動。次々に書くという動きの対極にある、こうした抑制の力が、何かをぐっと堪えたまま発語へと反転していく。言葉になる手前で、だれにも聞こえない音で、きしむ』ー『蛙はためらわない』 世の中には、常に頭の中を充たそうとする雑音が溢れている。そして一度頭の中に入り込...
『「書くまい」とする衝動。次々に書くという動きの対極にある、こうした抑制の力が、何かをぐっと堪えたまま発語へと反転していく。言葉になる手前で、だれにも聞こえない音で、きしむ』ー『蛙はためらわない』 世の中には、常に頭の中を充たそうとする雑音が溢れている。そして一度頭の中に入り込んだ雑音は、いつまでも不快な音で鳴り続ける。そんな雑音の元を頭の中から掃き出すことができればよいのに、と思う。 蜂飼耳の名前を見るたび、そんな連想が頭の中を通り過ぎる。この人もまた、自分自身の頭の中の雑音に悩む人であるのかと。 ぶんぶんと鳴っていた音の正体が、耳から飛び出して来るのを見遣ると、そこに舞うのは、忙しく羽根を動かし続け一点に固定しようとする蜂ではなくて、優雅に羽根を羽ばたかせて、ふわりふわりと宙に留まる蝶であったりして、驚く。 思いの正体は見えている姿とは異なることも侭ある。多くを語りたくはない。なのに言葉はだらだらと、溢れるようにこぼれ落ちる。慌てて口を塞ごうと手で覆うけれど、思いが溢れ出ているのは口ではない。そもそも耳には蓋がない。 仕方なく飛び出して来るものに身を任せると、形のない他人のもののような思いは、急に一つの姿にとなって立像する。ああ、と思わず声が出る。 この本に収められた一つひとつの文章がそんな思いの変化する様を見せつける。随筆のようであった言葉の配列は、いつの間にか散文のようになり、句読点ごとに、言葉が打たれるように置かれた時の余韻が一つひとつ深くなる。 その過程をつぶさに見てやろう、そして、その不思議な変換の秘密を解き明かしてやろうと、身を固くすると、元々かげろうのようであった存在は、たちまち霧散し、非存在となる。耳の中を静寂が支配する。 しかし、心地よい筈であったその状態は妙に身体を落ち着かなくさせる。その居心地の悪さが嵩じると、再び耳は煩わしいあの音で満ちてくる。その波に翻弄される。それに身を委ねるしかない。それが蜂飼耳を読むということ。
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