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異貌の古事記 あたらしい神話が生まれるとき
定価 ¥2,640
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 青土社 |
発売年月日 | 2014/04/11 |
JAN | 9784791767496 |
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異貌の古事記
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商品レビュー
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3件のお客様レビュー
著者の前著『古事記はいかに読まれてきたか―“神話”の変貌』(2012年、吉川弘文館)の続編というべき内容の本です。 『古事記はいかに読まれてきたか』では、本居宣長の古事記解釈を、中世以来の古事記解釈史の流れのなかに置くことでその意義をあらためて考えなおす試みがなされていましたが...
著者の前著『古事記はいかに読まれてきたか―“神話”の変貌』(2012年、吉川弘文館)の続編というべき内容の本です。 『古事記はいかに読まれてきたか』では、本居宣長の古事記解釈を、中世以来の古事記解釈史の流れのなかに置くことでその意義をあらためて考えなおす試みがなされていましたが、本書で最初にとりあげられるのは『古史成文』などの平田篤胤の著作です。ときに誇大妄想的とも評されがちな篤胤の神話理解を、「中世神話」などにうかがえる神話的想像力の系譜のなかに置きなおすことで、その内容を理解するための大きな枠組みを示しているところに、本書の価値があるのではないかと思います。 さらに著者は、千家尊福によって提起された「祭神論争」や、出雲の国に古代ギリシアの世界をかさねたラフカディオ・ハーン、そして民俗学者の折口信夫などの仕事をたどり、近代以降の思想史のなかに神話的想像力がどのようなかたちで息づいていたのかを考察しています。
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本居宣長・平田篤胤・千家尊福・ラフカディオハーン・折口信夫へと綿々と受け継がれてきた、古事記神話の注釈・研究という名の創作は、中世日本紀のようにそれぞれの時代の要請からの影響を大いに受けて行われてきたという。 どれだけ学問的・科学的に対処したように見えても、人は己の見たい様にしか...
本居宣長・平田篤胤・千家尊福・ラフカディオハーン・折口信夫へと綿々と受け継がれてきた、古事記神話の注釈・研究という名の創作は、中世日本紀のようにそれぞれの時代の要請からの影響を大いに受けて行われてきたという。 どれだけ学問的・科学的に対処したように見えても、人は己の見たい様にしかものを見ることができないのだろう。
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・斎藤英喜「異貌の古事記 あたらしい神話が生まれるとき」(青土社)といふ書名を見たら、たぶん誰もが「異貌」とは何かとまづ考へるはずである。古事記は言はずとしれた古事記であるが、それゆゑに、異貌といふ修飾語が付され ると古事記がいかなることになるのか。異なつた貌(かほ)の古事記……...
・斎藤英喜「異貌の古事記 あたらしい神話が生まれるとき」(青土社)といふ書名を見たら、たぶん誰もが「異貌」とは何かとまづ考へるはずである。古事記は言はずとしれた古事記であるが、それゆゑに、異貌といふ修飾語が付され ると古事記がいかなることになるのか。異なつた貌(かほ)の古事記……それはかういふものであるといふ。「ここで必要となるのは、宣長の『古事記伝』を近 代的な文献学の先駆としてではなく、中世以来の、注釈によって新しい神話を作り出す「中世神話」の系譜に位置づけなおすことだ。徳川社会の先端的な知を媒 介に読み替えられ、作り替えられた『古事記』。それを「中世神話」に倣って「近世神話」と呼ぼう。『古事記伝』の注釈を通して見えてくる『古事記』は、人 間的で大らかな神々や、自然と共生する日本人の魂の神話といった〈古事記編纂千三百年〉のキャッチコピーとして語られたものとは、まったく違う。宣長こそが、本書がもとめる〈異貌の古事記〉の創始者と位置づけられるのである。」(「プロローグ」13頁)長くなつたが、要するに従来の古事記の見方とは違ふ古事記の見方、そしてそこから見えてくるものを異貌といふのであらう。かうもある。「本書がめざすのは、こうしたステレオタイプ化した近代の『古事記』受容 論とは違う地平である。そのメルクマールを〈異貌の古事記〉と呼ぼう。」(同12頁)このステレオタイプは近代の「神話=国民統合のイデオロギーという視点」であらう。さうではなく、近世には既に古事記は異なつた相貌を見せてゐたのだといふのが斎藤氏の考へである。それが本居宣長に始まり、弟子の平田篤胤 を通して最後は折口信夫に行き着く。その間に小泉八雲ことラフカディオ・ハーンがゐたりもするのである。いづれにせよ、引用中に受容論とあるが、ごく大雑把に言つて、本書は近世宣長以降の古事記受容論、あるいは受容史といふ内容ではないかと思ふ。それが異貌であるかどうかは私には分からないが、確かにこれ までとは異なる見方を教へてくれる。平たく言えば啓蒙といふことにならうか。しかし、たぶん筆者はこの語を嫌ふのであらう。蒙を啓くのではない、新たな地平を拓くのだ……そんな意気込みが「プロローグ」によく出てゐると私には感じられる。実際、これだけでも一読に値する。 ・私は本書を非常におもしろく読んだ。例へば篤胤の大国主命、結論だけ引用すれば、「かくして中世神話に発する冥府の主宰神オホクニヌシは、 近世後期、キリスト教という『西洋』の知を媒介にして、あらたな『神』へと変貌を遂げていった。」(136頁)つまり、「『記』『紀』に埋め込まれていた 出雲=冥界の神話は、古代神話を遥かに超絶した世界へと変貌してい」(133頁)つたのである。ここには従来の大国主ではない大国主、「人間的で大らか」でない神がゐる。「無窮の時間の主宰神・オホクニヌシ」(136頁)である。さう、異貌である。実はこれ以前に、天之御中主神を篤胤は「宇宙の根源的な創造主宰神としてのアメノミナカヌシは、そうした『一つの世界』の起源を主宰する神へと変成」(104頁)したとする。「宇宙の中心に寂然として屹立する、 アメノミナカヌシ」(106頁)である。さうではなかつたはずだと思ふ。そして、さうか、古事記をかう読むのかと思ふ。篤胤とその一統は、狂信的とは言ひ すぎだが、過激な思想集団と考へられてきた。本書からは、実はさうではなく、いや、さうかもしれないが、それ以上に、篤胤の神話解釈にこそラディカリズ ム、急進主義があると知れる。かくして、個人的には篤胤が特におもしろかつたと最後に記しておかう。
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