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自由か、さもなくば幸福か? 二一世紀の“あり得べき社会
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自由か、さもなくば幸福か? 二一世紀の“あり得べき社会"を問う 筑摩選書

大屋雄裕【著】

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自由か、さもなくば幸福か? 二一世紀の“あり得べき社会

定価 ¥1,650

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 筑摩書房
発売年月日 2014/03/14
JAN 9784480015952

自由か、さもなくば幸福か?

¥605

商品レビュー

3.8

6件のお客様レビュー

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2022/08/07

論点の展開がよく考えられている良書だと思います。タイトルで自由の反対に幸福を置くのは違うのでは?と感じていたのですが、なるほどと思わせる展開でした。 自由は基本的な権利で不可侵であることと、社会性生物として功利主義は正しいがその最大化には「国」が「国民」をつぶさに知らなくてはい...

論点の展開がよく考えられている良書だと思います。タイトルで自由の反対に幸福を置くのは違うのでは?と感じていたのですが、なるほどと思わせる展開でした。 自由は基本的な権利で不可侵であることと、社会性生物として功利主義は正しいがその最大化には「国」が「国民」をつぶさに知らなくてはいけない、というどちらも正しいがゆえに両立はしないことを、人が社会の中で重きを置いてきた権利の変遷で説明されているので、極論ではなく自然な議論なのだと納得することができました。 なので、この辺りの社会の在り方は、民主主義も含めて、答えというものはなく、時代の要請によって移り行くものなのだと考えることができました。(つまり、民主主義も変わる時期に来ている)

Posted by ブクログ

2021/09/03
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

こういう論ではおなじみオーウェルの「一九八四年」からスタート。 自由で平等な個人が自己決定することで幸せに生きるという19世紀の理念が破れていく現状がまず指摘される。適切に自己決定できる人間の自律性を保つためには教育や環境で社会を制御し、統制していく必要があるという矛盾。むしろ人民は自己決定する責任ある自由を望まないという現実。少数者は自分の意見を反映できないままに法の順守を強いられ続けるという民主主義の限界。 著者は今後の展開として、いくつかの可能性の中で、コミュニティの全構成員が徹底した監視下に置かれる「ミラーハウス」社会(万人が不快を引き受けることの上に成立する正義にかなった社会)が到来する可能性が高いし、消極的にそれがふさわしいのではないかという結論を出す。 個人的には、少数を犠牲にする社会より全員が不快を引き受ける社会が支持されるというのは考え辛いように思う。心理的には、自分が一切不快にならない可能性があればその選択肢に傾くのが人間だ(そういう実験もあったはず)。現実にマイナンバーカードやらワクチンパスポート程度で大騒ぎしているのだからしょうもない。 功利主義的な合理性に基づけば適切な社会なのかもしれないけど、えてして人間は合理的な選択をするものではないし、それは著者がほのめかすような教育や「監視」によって矯正される性質のものではない。 しかも監視によって安心が提供されるわけではないと著者自身も書いているのに、それを徹底しても「同一化」よりは分断が進むのみではないか。「監視」とは具体的に何を想定しているのかもいまいち分からないのだが、著者が自ら指摘する是正可能性が課題という点、これこそが致命的に思える。結局運営や是正をコミュニティメンバーに頼るのであれば結局、現状の欠点を煮詰めたようなものにしかならないのではないか。 監視社会が不快とかいう以前に、人間の理性と合理性を頼りに依存したシステムがただしく機能して「正義」が実現するのかは疑問である。そういうシステムが機能するのなら、今だってみんな幸せな成熟した民主主義社会が実現していたのではと思う。

Posted by ブクログ

2020/01/17

一人ひとりが自由であることが幸福と結びつくというフィクションを信じられていた19世紀。でも、実態としては、このフィクションを実現できる人は限られていて、その他大勢は、このフィクションから排除されていた。さらに、その多くの人は、自由であることを重荷とさえ感じていた(自由からの逃走)...

一人ひとりが自由であることが幸福と結びつくというフィクションを信じられていた19世紀。でも、実態としては、このフィクションを実現できる人は限られていて、その他大勢は、このフィクションから排除されていた。さらに、その多くの人は、自由であることを重荷とさえ感じていた(自由からの逃走)。 個人の自由が政治に反映されるデモクラシー。そのデモクラシーの絶頂を迎えた20世紀。ワイマール憲法からヒトラーが、大正デモクラシーから軍部主導政治が生まれ、個人の自由は制限される全体主義の時代になる。自由主義側が戦争に勝ったかに見えたが、自由主義諸国の政治も、個人の自由を制限する政策を進める。 その自由の制限、監視が、政府だけではなく、様々なプレイヤーを通して行われるようになった21世紀。人々は、自由の制限に反発するよりも、監視から得られるベネフィットを喜んでいるかのようになった。 そんな時代の流れの中から、次の時代を考えるとすると、著者は、次の3つの方向があるのではないかと指摘する。 1つは、新中世の時代。 2つ目は、○○○○。アーキテクチャーによる統治。 3つ目は、ハイパーパノプティコン。皆が少しずつ監視される社会。 感想途中ですが、久しぶりにワクワクしながら読んだ本。

Posted by ブクログ

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