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産屋 小池昌代散文集
定価 ¥2,420
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 清流出版 |
発売年月日 | 2013/11/21 |
JAN | 9784860294090 |
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産屋
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商品レビュー
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2件のお客様レビュー
新聞の書評に勧められ、はじめてこの著者の作品を読んだ。詩人で、エッセイは苦手だとあとがきにて記されている。 いえいえ、楽しませていただきました。
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『大人の言葉を甘くした幼児語とは違い、そうした喃語には、赤ん坊の体液から直に滲み出てきたような、言葉の原液の響きがある。言葉とはいえ、その中身は、まだ綺麗な、がらんどう』ー『運ばれていく』 『いま、この瞬間、わたしは生きていて、身に傷ひとつ受けず、安全なのに、胸はどきどきと、鼓...
『大人の言葉を甘くした幼児語とは違い、そうした喃語には、赤ん坊の体液から直に滲み出てきたような、言葉の原液の響きがある。言葉とはいえ、その中身は、まだ綺麗な、がらんどう』ー『運ばれていく』 『いま、この瞬間、わたしは生きていて、身に傷ひとつ受けず、安全なのに、胸はどきどきと、鼓動を打ち始める』ー『踏切の途中』 小池昌代の視線は常に瞬間を捕らえる詩人のそれであると思う。なんの因果もない、目の前に開けた光景を心に焼き付け、言葉にする。あっ、と思ったその思いを丁寧に拾い上げる。例えば石田千のように、目の前の光景の中に潜む気配に思いがふわふわと漂うことはない。視点が動かない、と言ったらよいのかも知れない。そのことが小池昌代のエッセイを散文に近づける。 詩人の身体の中にあるものは、どこまでも「非」言葉性であるものと言葉の葛藤であろうと思う。何か心に触れる光景を目の当たりにして、あっ、と思った瞬間を言葉の毛糸で編み上げようとする。編み上がったものの袖に先ほど感動した思いを通す。あちらが短い。こちらが余っている。中々ぴたりと仕上がらない。糸を解いてはまた手直しをする。そんなことを繰り返すうちに、感動した思いの方も変節する。そうさせまいと詩人はいよいよ言葉を編み上げる技に心を砕く。 それは瞬間としての、ごく高次元の微分を可能にするような高度な技であると思う一方で、より思いのエネルギーの大きな変量としての保存則として働くところが強くはない、とも思う。エッセイにそれを書き下してみても、詩が持ちうる運動エネルギーを、この散文的エッセイが持ち得ない、と言い換えてもよいかも知れない。 例えば、モノクロームの写真に捉えられた光景に、人が感動を覚えるとしたら、それは写真の中に自分自身の物語を投影するからだろう。写真に全てが表現されている訳ではないのだ。言葉にならない心の動きを、余韻を持った言葉に託してこそ、個人の感動が、普遍的になり得る。そのことを詩人である小池昌代は重々承知しているはずであるのに、ここには、不用意な言葉が並べられ過ぎていると思う。 自然に歩くことのできる自分を言葉に全て置き直してみようとして、一歩も動けなくなる呪縛のようなもどかしさを、どこまでも感じてしまう読書となる。小池昌代の詩の余韻に耽溺するものとして、なんとも言えないもどかしさを覚える。
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