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徳川幕府はなぜ朝鮮王朝と蜜月を築けたのか
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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 実業之日本社 |
発売年月日 | 2014/01/11 |
JAN | 9784408110516 |
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室町幕府頃からの朝鮮と日本の関係が書かれており、面白い。豊臣秀吉の朝鮮出兵が朝鮮の人々に深いキズと恨みを与えており、その豊臣政権を破った徳川家康と宥和しようという気運が生まれたことは興味深い。日本と国交や通商を持ちたい時代状況であったのかもしれないが、政権交代により考え方を変える...
室町幕府頃からの朝鮮と日本の関係が書かれており、面白い。豊臣秀吉の朝鮮出兵が朝鮮の人々に深いキズと恨みを与えており、その豊臣政権を破った徳川家康と宥和しようという気運が生まれたことは興味深い。日本と国交や通商を持ちたい時代状況であったのかもしれないが、政権交代により考え方を変える政治の強かさも感じる。その後百年後に、朝鮮通信使の接待に方広寺を使おうとして朝鮮側は拒否したという。やられた方は百年たっても覚えているのだということだ。著者は「朝鮮出兵の時に戦果豊国として耳や鼻が削ぎ落とされて送られた。その耳や鼻を埋めた耳塚の横に公園を作る行政の無神経さ」と書いているが、本当にそのとおりだと思う。削ぎ落とされた人々には兵士だけでなく、女性や子供も含まれていた。
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毎週のようにお世話になっている図書館の新着コーナーに置いてあり読んでみました。この本は、応仁の乱の頃から、明治維新直後にかけて、朝鮮と日本の間にのみ焦点をあてた歴史が解説されています。 本のタイトル「徳川幕府はなぜ朝鮮王朝と蜜月を築けたのか」に対する答えは、私の理解では、朝鮮に...
毎週のようにお世話になっている図書館の新着コーナーに置いてあり読んでみました。この本は、応仁の乱の頃から、明治維新直後にかけて、朝鮮と日本の間にのみ焦点をあてた歴史が解説されています。 本のタイトル「徳川幕府はなぜ朝鮮王朝と蜜月を築けたのか」に対する答えは、私の理解では、朝鮮に膨大な被害をもたらした二度の侵略を行った秀吉を破った家康が政権を握ったということです。 徳川家康が征夷大将軍になったといっても、秀頼や有力大名がまだ多くいるなかで、近隣の外国である朝鮮から正式に国交を樹立することも徳川幕府にとっては好都合だったという側面もあると思います。 徳川時代は鎖国と言われていますが、この本で解説されているように、江戸時代において合計12回の朝鮮通信使が派遣されていて立派な外交・貿易を行っていたようですね。 朝鮮と江戸幕府の間に入っていた対馬藩は、その手続きを独占することによるメリットもあったかもしれませんが、国書のやり取りにおいてかなりの苦労をしていたことが分かりました。 以下は気になったポイントです。 ・応仁の乱は、1467.5に始まった、有力な守護家の家督争い(細川氏と山名氏)の対立に、東軍(細川)16万、西軍(山名)11万という大軍同士が激しく争い、京都の町は2日間で大方が燃え尽きた、講和の後も室町将軍の権威は失墜して守護も没落した(p18) ・秀吉は家康に対して、大陸に兵を出すことに賛成してくれるなら、家康には負担をかけない内示をしていた(p36) ・王朝創設の翌年だった1393年、李成桂は2つの国号を用意した、朝鮮という由緒あるものと、和寧という彼の出身地の地名であった(p53) ・小西行長は豊臣政権の奉行たちから国書書き換えの承認を受けていた、彼がすべて単独で講和を進めていたことではないことが秀吉にもわかり斬首を免れた、そして1597年に再度、慶長の役を始めた(p61) ・慶長の役の目的は、朝鮮半島南部の4道を、戦功のあった武将たちに分け与えること(p64) ・慶長の役で当初、豊臣軍にとって幸いだったのは、李舜臣が獄につながれていたから(p65) ・慶長の役の朝鮮撤退において殿(しんがり)を務めた島津軍との戦いにおいて、海上で陣頭指揮をとっていた李舜臣は戦死した(p71) ・1617年の徳川秀忠の使いとして朝鮮国王に渡した国書には「日本国王源秀忠」の名前と書かれていた(p93) ・西国の大名は競って、陶工を連れ去り、領地で焼き物をつくらせた。有名なのは、有田焼・薩摩焼・萩焼であり、これらは貴重な財源となった(p105) ・1636年(寛永13)に、朝鮮通信使がきたとき、後金が国号を清に変えて、12万という大軍で朝鮮半島に押し寄せた(p126) ・日本が輸出したのは銀、朝鮮から輸入したのは、中国生産の絹糸や、朝鮮人参である(p135) ・豊臣家から政権を奪った徳川家に大義名分はあるか、という疑問が残っていたなかで、外国使節の日光参拝は、家康の業績が外国でも認められたことを強く印象付けた(p140) ・貿易再開の交渉を名目に、1640年5月にマカオのポルトガル政庁が長崎に入港したが、幕府は船を焼き捨て、使節および乗組員全員の61名を斬首した(p143) ・韓国は1961年の軍事クーデターによって武の国になり、文民大統領が誕生した1993年まで続いた。科挙は、今も大学入学試験として残っている。毎年11月1日に受ける試験(修能)として残っている(p175) 2014年2月16日作成
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