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その「民衆」とは誰なのか ジェンダー・階級・アイデンティティ
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 青弓社 |
発売年月日 | 2013/07/01 |
JAN | 9784787233585 |
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その「民衆」とは誰なのか
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中谷いずみ『その「民衆」とは誰なのか ジェンダー・階級・アイデンティティ』青弓社、とりあえず、読了。人間が主体化される経緯を丁寧にときほぐす一冊。善良の政治性を逓減させつつ関わる私はどう創造するのか。アーレントを想起する魅惑的論考。 http://www.seikyusha.c...
中谷いずみ『その「民衆」とは誰なのか ジェンダー・階級・アイデンティティ』青弓社、とりあえず、読了。人間が主体化される経緯を丁寧にときほぐす一冊。善良の政治性を逓減させつつ関わる私はどう創造するのか。アーレントを想起する魅惑的論考。 http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-3358-5
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都市と群衆の時代、フォーディズムと修正資本主義の時代、総力戦体制と福祉国家の時代……。いろいろ呼び方はありうるが、統治システムが幅広く成員を包摂し、表象と言説のヘゲモニーを通じてその〈同意〉を調達しなければならなくなった歴史的段階において、多数者の“声”なるものが、誰によって...
都市と群衆の時代、フォーディズムと修正資本主義の時代、総力戦体制と福祉国家の時代……。いろいろ呼び方はありうるが、統治システムが幅広く成員を包摂し、表象と言説のヘゲモニーを通じてその〈同意〉を調達しなければならなくなった歴史的段階において、多数者の“声”なるものが、誰によって・どのように見出され・表象され・再生産されていったのか。こうした問いの構えをとることで、単なる民衆史・民衆表象史ではない独自の地平を切り拓いている。ひとつのひとつの論文で、というよりは、1冊の本としてまとめられることで、事態の輪廓や著者の思考の過程が見えてくるというタイプの本。編集作業の充実ぶりをうかがわせる好著だと思う。 官邸前抗議でつねに叫ばれ、特定秘密保護法抗議でも口にされていた「子どもを守れ!」というフレーズが、1950年代の原水禁運動に起源を持っていたというのは重要な指摘。確かに、3・11以後の社会運動にあっても、相変わらず反核・反原発のアイコンはミサオ・レッドウルフだし、ゼロベクレル運動は母親たち中心のムーブメントだと語られ、反レイシズムのカウンターでは、「Kポペン」の女子高生が引き合いに出される。女性の姿、女性表象を前面に立て、いわば「前だて後ろだて」(中野重治)としていく運動の戦略は、著者の言うように、まさに現在の問題でもある。と同時に、女性表象がより先鋭的に政治化しているように見える現在の運動圏の中では、過去の表象の立てられ方とどこが同じで、どこが違っているのかも問題になるだろう。 全体的な印象で言うと、いちばんの読みどころは3〜5章。とくに、第3章の太宰治「千代女」「女生徒」をめぐる論述は、ていねいな読み込みと着実な論理展開で、いかに太宰が語られる〈少女〉の規範をずらしているようでいて、より強力に再生産してみせたかを説得的に示している。また、何といっても圧巻は第5章。〈綴方〉という文体それ自体が産出してしまう〈私〉の像が、原初的で内発的な〈声〉のありかとして発見され、読み出されてしまうことで、実際の書く現場での個々の〈私〉が、自らを無力で、啓蒙されるべき存在としての位置を受け取り直しつづけるように強いられていく。人は自由に語ることなどできないし、他者からその発言を承認されたいという欲求から無縁ではいられない(だから「いいね!」と押されたい)。なればこそ、声を聴き、声を媒介し、声を伝えていく人びとのありようが問題なのだ、という著者の指摘は決定的に重要だ。 その上で問題になること。本書での著者の問いは(筆者自身はそう書いていないが)いわゆる代表性にかかわる。著者は、代表される側=民衆がどう表象されたか、ではなく、必ずしも沈黙していたわけではない・むしろ積極的に語りだそうとしていた人びとの声がどのように回収され領有されたか、という議論を展開している。だが、ところで、回収したのは・領有=盗用したのは、本当のところ誰なのか。この問題については、(おそらく方法的な判断として)基本的に論じられていない。 おそらく、第1部と第2部の質的な違いもそこにかかわる。第1部では、たとえば川端であり太宰という名前は挙げられている。しかし、第2部で、個々の局面における戦術とより長期的な戦略性とを曖昧に混同しつつ展開された、運動の中での声の領有をめぐる内容にいささか隔靴掻痒の感を覚えてしまうのは、領有=盗用される具体的な局面に記述が費やされる一方で(それは本書の記述が説得力を持つ要因でもある)、領有=盗用する側の論理なり、戦術/戦略的な判断なりについての記述がいささか弱いからではないか。その結果、不在としての聴き手の聴き手たち(マジョリティ?)が、揺るぎない・動かし難いブロックであるかのように、結果として見えてしまってはいないか。 運動にはつねに過誤と限界とがつきまとう。たぶん、運動の過程ではそうした過誤や限界に気づけないし、気づいたとしても修整はなかなか難しい。あくまでわたしの素人かんがえに過ぎないが、だからこそ、「未来」のために、媒介者たる聴き手たちの同時代的な過誤と限界とをきちんと見定めることが必要ではないかと思うのだが、いかがなものだろうか。
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