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反・仏教学 仏教VS.倫理 ちくま学芸文庫
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 筑摩書房 |
発売年月日 | 2013/02/08 |
JAN | 9784480095114 |
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反・仏教学
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久々に面白い本を読んだ。 大乗仏教は小乗と異なり,”善”だけでなく”悪”も考えていく。悪は,「不殺生」のように他者の存在が欠かせない。そして他者を含めるということは複雑性が増すということであり,曖昧さへの歯止めとして六波羅蜜のような極端さが必要となる。しかしそのような極端...
久々に面白い本を読んだ。 大乗仏教は小乗と異なり,”善”だけでなく”悪”も考えていく。悪は,「不殺生」のように他者の存在が欠かせない。そして他者を含めるということは複雑性が増すということであり,曖昧さへの歯止めとして六波羅蜜のような極端さが必要となる。しかしそのような極端さは現実に人間レベルでは不可能であり,他者救済をするはずが本願他力へとシフトし,無責任主義となる。 つまり,大乗とは,他者の立ち現れによる超倫理なのだ,というのが著者の意見。 その結果,大乗では倫理の崩壊が懸念される。六波羅蜜然り。 更に,”空”という概念では,無執着を説くため,そこから無責任が生じやすい。色即是空とは善悪不二(維摩経)であり,二元論を否定するからだ。また,この大乗は,現実の不平等の隠蔽という負の側面も担っているようである。 極端な他者救済を掲げるも,その極端さ故に実現不可能であり,結果として他者(如来など)から救われる衆生へと変化する。これは一見キリスト教と類似しているが,その違いは,我々衆生と仏陀が異質ではない点である。自力への道が完全に絶たれている訳ではなく,媒介者(キリスト教でのイエス)は不必要となる。 また,仏性(如来蔵)という概念も,大乗特有である(大般涅槃経の「一切衆生悉有仏性」)。これと逆のものが,法相宗の「五性各別説」であり,人の未来は先天的に決まっているというもの。何をしても因果は変わらないという立場であるため,行基や徳一のように,法相宗では社会的実践を積極的におこなう。一見パラドックスであるが,それぞれが置かれた立場でその分を超えず瞬間を生きることを,法相宗は理想としたのかもしれない。 著者の一番の主張は,「他者」について。 人には,互いに共有出来ない「語り得ないもの」がある。 それは公共,人間を超えるものであり,倫理の枠にさえも嵌らない。 その超倫理をまるごと抱え込むシステムが,宗教だというのだ。 つまり,宗教は,人間の世界からの逸脱と還元を繰り返すのである。「他者を人間の意味の世界に回収しようとしながらも,回収しきれない他者と向き合う」のだ。超倫理,宗教とは,「<魔>や<恨>の織りなす他者との関係を前に立ちすくみ,もう一度畏れをもって見直す」システムであり,「<人の間>とそれを超えたものとの緊張関係を結びつけるものなのだ。<人の間>にだけ一方的に回収する科学や倫理との違いが,そこにはある。 人との間で共有できる世界を,末木は「顕」と呼び,そうでない世界を「冥」と呼ぶ。 この「冥」にもいくつかの層があり,まず自分ではなない「他者」の層,次に公共の<人の間>のルールにのぼらない他者の極限である「死者」の層,そしてそれさえも超えた「神仏」の層である。 清沢満之は,世界を「万物一体」として説いた。 これは縁起とほぼ同義であり,多入力多出力を意味する。このような世界において,責任や意味だけをひたすらに追及することに,どれだけの意味があるのだろう(意味のパラドックス)。
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