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現代語訳 吾妻鏡(12) 宝治合戦
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現代語訳 吾妻鏡(12) 宝治合戦

五味文彦, 本郷和人, 西田友広【編】

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現代語訳 吾妻鏡(12) 宝治合戦

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 吉川弘文館
発売年月日 2012/11/22
JAN 9784642027199

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2023/11/09

1244年~1248年の『吾妻鏡』の記述。 ・本巻の政治情勢 ・吾妻鏡 第三十六 寛元二年(1244)5月~12月(第三十五と重複)          寛元三年(1245)正月~12月 ・吾妻鏡 第三十七 寛元四年(1246)正月~12月 ・吾妻鏡 第三十八 宝治元年(1247)...

1244年~1248年の『吾妻鏡』の記述。 ・本巻の政治情勢 ・吾妻鏡 第三十六 寛元二年(1244)5月~12月(第三十五と重複)          寛元三年(1245)正月~12月 ・吾妻鏡 第三十七 寛元四年(1246)正月~12月 ・吾妻鏡 第三十八 宝治元年(1247)正月~12月 但し、11月までは寛元五年。1月に宝治元年に改元。 ・吾妻鏡 第三十九 宝治二年(1248)正月~12月 注、有り。付録は、時刻表/方位。大倉御所概念図。 鎌倉時代の鎌倉、若宮大路周辺図。 天皇家系図、鎌倉将軍家系図、北条氏系図。 藤原頼経の子息・頼嗣が6歳で征夷大将軍を宣旨、 頼経は27歳で出家し、大殿として勢力を持つ。 名越朝時が53歳で死去、そして執権・経時も33歳で亡くなる。 (23歳没の見方が強い) その1146年、実弟の時頼が執権を継承してから、事態は急変。 時頼打倒を画策した名越朝時の息子・光時と時幸、藤原定員、 評定衆のうち4名の失脚と頼経の京への送還が成された。 そして宝治合戦。出家した安達景盛が高野山から鎌倉に下向、 騒然とする中、三浦氏が安達氏の先制攻撃を受け劣勢となり、 泰村や一族、郎党など約500人が死を選び壊滅する。 縁座で千葉氏その他の古くからの御家人たちにも影響が。 その後、京の六波羅探題の北条重時が鎌倉に戻され、 連署に就任。執権の時頼を支え、様々な条々の審議と 法の整備を行ってゆく。 北条経時が亡くなり、実弟の時頼が20歳で執権を継承してから、 ドロドロとした政権抗争有り、一族滅亡の宝治合戦有り。 鎌倉幕府、怖いわぁ。 上洛したがっていた頼経が京に送還されるのは、皮肉。 「吾妻鏡」では記録されていないけど、 藤原道家も10月に関東申次を罷免されて失脚してるし。(宮騒動) 面白いのは一族完全壊滅というわけではなく、 庶流や傍流の者が生存し、家を存続させていること。 また、御内人の氏名が増えてきたことも、気になるところ。 そして、長らく六波羅探題で執務してきた50代の重時が、 連署として若き執権の時頼を支えてゆくのかは、次巻に。

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2023/01/31

守護が鎌倉や京都にいる場合、現地に守護代を派遣した。讃岐守護は林田守護代を設置した。三浦光村が讃岐守護の時に長雄二郎左衛門胤景(ながおじろうざえもんたねかげ)が林田守護代を称した。真言宗の僧侶の道範が大伝法院焼き討ちの責任を問われて林田守護代のところに配流されたことがある。 三...

守護が鎌倉や京都にいる場合、現地に守護代を派遣した。讃岐守護は林田守護代を設置した。三浦光村が讃岐守護の時に長雄二郎左衛門胤景(ながおじろうざえもんたねかげ)が林田守護代を称した。真言宗の僧侶の道範が大伝法院焼き討ちの責任を問われて林田守護代のところに配流されたことがある。 三浦光村は将軍九条頼経の側近として仕え、鎌倉幕府評定衆の有力御家人であった。しかし、宝治元年(一二四七年)の宝治合戦で滅亡した。父親の三浦義村が陰謀を楽しんでいるような人物であり、承久の乱では上皇方になった実弟の三浦胤義を躊躇なく滅ぼした。将軍への忠誠心を持った光村は父親の義村よりも胤義に近いメンタリティがある。 宝治合戦の後は北条重時が讃岐守護になる。重時は義時と姫の前の次男で、極楽寺流の祖である。長男の朝時の名越流と異なり、極楽寺流は得宗家に忠実であった。 それまで重時は六波羅探題であったが、宝治合戦後に鎌倉に戻り、連署に就任し、執権北条時頼を補佐した。このため、讃岐守護は西国から離れた後であり、現地には疎い。その後の讃岐守護は北条一門が就任した。

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2012/12/30

鎌倉を飛翔した謎の黄色い蝶とは? 本巻では鎌倉御家人の最強であったはずの三浦氏一族が武装蜂起したにもかかわらず哀れ北条一門の軍門に降る。寛元5年・宝治元年1247年の宝治合戦である。 「吾妻鏡」では御霊神社付近に拠点があった安達景盛一族が挑発したために三浦氏が決起したかのよう...

鎌倉を飛翔した謎の黄色い蝶とは? 本巻では鎌倉御家人の最強であったはずの三浦氏一族が武装蜂起したにもかかわらず哀れ北条一門の軍門に降る。寛元5年・宝治元年1247年の宝治合戦である。 「吾妻鏡」では御霊神社付近に拠点があった安達景盛一族が挑発したために三浦氏が決起したかのように記述されているが、これは北条側がみずからの陰謀を糊塗するためのでっちあげ記事だろう。悪辣な北条ばらは、当時競合していた安達・三浦両御家人を計画的に退治するために、まずは安達を取りこみ、その連合軍が500名を超える三浦一族の武士たちの隙をついて皆殺しにしたに違いない。 現在の頼朝の墓の下にある法華堂に集結した三浦勢は、今はこれまで、と全員が自決するが、棟梁のひとり三浦光村は誰の首だか分からなくするために刀でおのれの顔を削り「どうが、これなら分からないだろう」と仲間たちに尋ねてまわったという証言が残っているが、三浦氏とはそういう勇猛果敢な武士だった。 もっとも彼らも、北条と一緒になって私の大好きなあの剛毅な英雄畠山重忠や和田義盛の一族を騙し討ちにしているから、自業自得といえばいえるのだが。 本巻ではたとえば宝治2年7月小10日などに女性の財産を男性から護る条文を掲載していて、鎌倉時代までは女性の経済的権利がある程度保証されていたことが分かるが、そんなことより蝶マニアのわたくしには同年9月に2度に亘って鎌倉市内を飛び回った黄色い蝶の大集団が気になる。 恐らくはシロチョウ科・モンキチョウ亜科に属するキチョウだろうが、その発生は通常夏であり、旧暦の9月といえばほぼ初冬であるからこんな時期に群れをなして飛翔することはありえない。三浦勢を騙し討ちにした北条がそれを天変地異に転化したり、悼んでいるかのように演出するための「作文」ではなかろうか。

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