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政党支配の終焉 カリスマなき指導者の時代 サピエンティア24
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政党支配の終焉 カリスマなき指導者の時代 サピエンティア24

マウロ・カリーゼ(著者), 村上信一郎(訳者)

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政党支配の終焉 カリスマなき指導者の時代 サピエンティア24

定価 ¥3,300

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 法政大学出版局
発売年月日 2012/06/11
JAN 9784588603242

政党支配の終焉

¥770

商品レビュー

4.3

3件のお客様レビュー

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2015/11/29

 イタリア政治に関する本。文章の組み立てや比喩が明解で、政治を専攻していない私にも分かりやすい良書。

Posted by ブクログ

2014/11/29
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

[ 内容 ] なぜ政治改革は失敗したのか。 莫大な資産とマスメディアを武器に、首相となったベルルスコーニ。 伝統ある既成政党は壊滅し、パフォーマンス政治家がはびこる。 イタリアの政治をとりあげ、民主主義の問題をあぶりだす。 [ 目次 ] 序論 一〇年後 第1部 もはや政党は存在しない(沈黙のスパイラル;恐竜の没落;ルソーの亡霊;アメリカのフロンティア;イギリス労働党の雪辱) 第2部 指導者の復活(パーソナル・パーティ;民主主義の時代の「君主」;怖いもの知らずの「騎士」;傭兵隊長;首相党) 第3部 指導者の二つの身体(政治的身体;失われた根拠;理性・利益・情念) [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]

Posted by ブクログ

2013/12/06

なぜイタリアにベルルスコーニというモンスターが生まれたのか。現代イタリアの政治文化を分析した本書は、小泉旋風と橋下現象を経験したわれわれ日本人にとっても無縁でないばかりか、現在の官邸主導型政治の本質を理解するうえでも極めて有益である。 もともと政党というのは(階級などの)社会的...

なぜイタリアにベルルスコーニというモンスターが生まれたのか。現代イタリアの政治文化を分析した本書は、小泉旋風と橋下現象を経験したわれわれ日本人にとっても無縁でないばかりか、現在の官邸主導型政治の本質を理解するうえでも極めて有益である。 もともと政党というのは(階級などの)社会的亀裂を基盤として誕生した。したがって、社会が成熟して亀裂が緩和していくと、必然的に政党はその存在理由を失っていく。その間隙を突いて現れた指導者の個人的なカリスマ性に依拠した人工的でプライベートな新しい政党を、著者は従来型の政党と区別して「パーソナル・パーティ」と呼ぶ。 従来型の政党は派閥集団であり、複数の派閥領袖たちによる寡頭制的なものであった。派閥領袖たちは各地方と中央を結びつけるパイプ役であり、各地方の要求を中央に汲み上げるポンプ役でもある。したがって、複数の派閥から成る従来型の政党は、寡頭制的であると同時に多元主義的でもあり、「多から成る一」という近代社会契約の原則とも適合するものであった。いわばボトムアップ型の民主主義を体現していたのが従来型の政党であったのだ。 ところが、パーソナル・パーティはそうではない。この新しい政党の最大の特徴は、強い決定権限を上に集中させる(アメリカ型の)企業統治がモデルとされていることだ。一人のカリスマ的指導者のもとで、明確な目標が立てられ、その迅速な実現が求められる。そして広報の専門家を要職に配置していることも見逃せない。彼らは地方の要求を汲み上げるポンプ役としての役割を初めから放棄している。彼らが対象とするのは大衆である。世論調査によって一般受けしそうな象徴的政策を練り上げ、それをメディアを駆使して情緒的に煽動し市民のテンションを上げる。この効率性とイメージ戦略を重視したパーソナル・パーティは明らかにトップダウン型の支配体制であり、世論調査を参照していることから民主的要素を含んではいるものの、「多から成る一」という社会契約原理とは相容れない。ここに現代民主主義の危機があるとする。 そして小選挙区制の導入がその危機に拍車をかけた。有権者は各候補者の主張を理解して、比較して、最も納得のいく選択をしたうえで投票する。理性に信頼を置いた合理的選択論の立場からはそうなるはずだった。しかし実際には、有権者の投票行動は合理的選択とは何の関係もない手段によって行われていた。劇場型政治の登場によって。 「イタリアの有権者は、『イデオロギーによる投票』(政党志向型)から、小選挙区制にもとづく二大政党論が想定したような『意見による投票』(争点志向型)に移行するのではなく、『カリスマによる投票』(指導者志向型)に移行した」(p.174) ルソー的な直接民主主義の要請(首相公選制など)は単なる指導者への支持表明に堕してしまうし、ハーバマス的な討議デモクラシーはポピュリズム的投票行動を前にして無力感を露わにしている。さてどうするか。結論は読者に委ねられている。 小著ながら論旨が凝縮された密度の濃い一冊であり、ノートを取りながら精読した。久々に学問の凄みを感じさせる読書体験だった。人格的権力(カリスマ的権力)を制度的権力(合理的・合法的権力)に脱魔術化したはずの現代社会において、近年新たな形で人格的権力の再魔術化が起こっていることを指摘し、合理主義が貫徹した世界を「鉄の檻」と呼びカリスマ的権力の復権を予期したマックス・ウェーバーとの関連を論じた最後の最後まで読み応え十分。TwitterやFacebookのように、政党を介することなく指導者と市民が「直接繋がる」SNSのようなメディアもまた直接主義の一種と言え、カリスマ的支配と親和的な媒体であることも確認できる(今にして思えば、小泉内閣が始めたメルマガはその先駆けと言えるのかもしれない)。 余談。つい先日、脱税その他の汚職によってベルルスコーニの政治生命が遂に絶たれたという報道に接して、「メディアが支配する現代社会において、カリスマ的指導者は必ずや『カリスマなき人格主義』に陥ってしまうのである」(p.218、訳者解題)という言葉の意味についても考えさせられる。メディアから生まれたカリスマはメディアによってそのカリスマ性を失う。たしかにイタリアではそうなった。では日本ではどうか。興味は尽きない。

Posted by ブクログ

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