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諸学の体系 学問論復興のために 叢書・ウニベルシタス970
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諸学の体系 学問論復興のために 叢書・ウニベルシタス970

パウルティリッヒ【著】, 清水正, 濱崎雅孝【訳】

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諸学の体系 学問論復興のために 叢書・ウニベルシタス970

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 法政大学出版局
発売年月日 2012/01/16
JAN 9784588009709

諸学の体系

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商品レビュー

3.7

3件のお客様レビュー

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2019/04/21

2021/8/5 訳者のまえがきと解説を中心に再読。 2019/4/21 種々の学問分野を整理する仕事は、本当に難解で骨の折れる作業だ。本書は神学者であるティリッヒによる学問論である。私には難攻不落の哲学書だった。一部の記述を何度か繰り返し読んでかろうじて了解できるくらいだっ...

2021/8/5 訳者のまえがきと解説を中心に再読。 2019/4/21 種々の学問分野を整理する仕事は、本当に難解で骨の折れる作業だ。本書は神学者であるティリッヒによる学問論である。私には難攻不落の哲学書だった。一部の記述を何度か繰り返し読んでかろうじて了解できるくらいだった。本書目次を見て、階層的な構造になった様相を「諸学の体系」ととらえるだけではおそらく不十分といえる。テキストを熟読することで初めて理解できるものだと感じた。今回は、ひとまず、思惟、存在、精神という三重性(p.14)が諸学の体系の基礎であるという記述を確認した程度である。今後の大きな課題としたい。 訳者によるまえがきは、現代の大学人にとって示唆的といえよう。大学のガバナンスというと法人の経営に焦点があてられることが多いが、諸学問の「統御」(シュスマーテ)の言語によってしか導かれないと強調する。「研究の研究」の蓄積は、科学史や科学技術政策の研究土壌がある研究大学で比較的実施されるが、他方「学問の学問」という学問論は、哲学の一主題やカリキュラム研究の一部として例がある程度だったという(xiii)。

Posted by ブクログ

2017/01/13

もしかするとAI時代に生き残るのってこれなのかもな..... >精神科学全般に当てはまる創造的な性質が存在科学にも当てはまるのは本質把握に関してのみであるし、思惟科学においても当てはまるのは形式発見においてのみである >懐疑がその直接的な自己確信を破壊した後で、よ...

もしかするとAI時代に生き残るのってこれなのかもな..... >精神科学全般に当てはまる創造的な性質が存在科学にも当てはまるのは本質把握に関してのみであるし、思惟科学においても当てはまるのは形式発見においてのみである >懐疑がその直接的な自己確信を破壊した後で、ようやく精神は自己を反省し、認識とはそもそも何か、学問とは何か、ということを問うに至った 体系の生きた力はその内実であり、その創造的な立場であり、その原直観である。究極的な原理は究極的な現実直観の表現であり、その基礎となる生の態度の表現。したがって内実はあらゆる瞬間に学問の形式的体系を突破して行く。この内実は形而上学的なものである。 メタ論理的な方法の本質は、これらの機能の非合理的な要素を論理的な要素を通して見ることにある。「思惟」は「形式一般」と等しくなり、「存在」は「内実一般」と等しくなる。思惟は合理的、形態形成的、形式保持的な要素の表現となり、存在は非合理、生命、無限的な要素すなわち現実的なものすべての深みと創造力の表現となる。 メタ論理的な方法の行使: 論理主義ー現実的なものをすべて安定的で合理的な形式において把握しようとする。論理主義は静的だし、静的でなければならない。最高の論理性はA=A(安定的同一性) メタ論理的な方法は動的:内実を形式の生きた力動性によって明らかにするが、この形式はあらゆる運動にもかかわらず論理的な統一性を失うことはない。このような動的な方法の源泉がヘーゲルの弁証法。この弁証法はあらゆる批判や拒否にもかかわらず、意識的にも無意識的にも影響力を持ち続けている、最後の偉大な体系創造方法。 ーただその方法の欠陥は、論理的なものがメタ論理的なものと動的なものとを呑み込んでしまい、論理的ー時間的な展開のある一点において動的なものが廃棄されてしまったことである。この弁証法において、思惟は止むことなく存在を屈服させようと欲したのだが、存在は個別的にも体系全体においても決して屈服させられ得ない。存在は内的に無限なのであり、新たなものを創造する力を持っている。それゆえにメタ論理的なものは常に動的な方法。 諸学の体系は思惟と存在の生きた矛盾と生きた体系として構想される。 社会的な形態の創造は、その最高の表現を幾人かの並外れた個人の創造の中に見出す。彼らの創造において社会的な形態全体の場合によっては人類全体の精神的な可能性が実現する。彼らにおいて精神は天才となる。 彼らはある種の形態法則となった共同体の形式をも突破する。それにもかかわらず彼らは彼らがその実体から彼らが創造する社会的な形態に依存している。彼らはそれを突破しても破壊しない。 真理とは、真理認識が正当であるか不当であるかを決定する抽象的な妥当性の体系ではない。そうではなく、真理はただ具体的にのみ自己を現実化し、あらゆる創造において正当に自己を現実化する一機能。精神的なものにおいて問題となる対立は、正当であるか不当であるかではなく、創造的であるか恣意的であるかである。 確信を得ようとする戦いにおいて、恣意についての審判と、意味ある必然性の正当化が遂行される。しかしそれは正当な要素と不当な要素の分類ではなく、新しい創造物が古い創造物に対して措定され、前者が後者を包み込む形でなされる。 精神の過程を推進するのは抽象的な批判でなく、新しい措定。法則が形態の一形態に過ぎないように、批判は創造の一部に過ぎない。批判が創造的なものから分離して登場するならそれは空虚で無価値。全ての精神的な批判の端緒は精神的な創造であるが、その逆は成り立たない。

Posted by ブクログ

2012/04/05
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

初期ティリッヒ、待望の翻訳。ティリッヒを「神学者」という狭い枠に収めてしまうことの早計さをそっとおしえてくれる一冊。晩年のティリッヒは、文化の神学、諸宗教の神学の先鞭をつけたと評されますが、文化、諸宗教にかかわるということは「人間」の全ての問題に関わるということ。 ティリッヒ研究者の陥りがちな罠がここに存在する。そう「神学者」として「受容」すれば「事足りる」というそれがそう。 しかし、学的キャリアをふまえるならば、そうした狭苦しい枠組みに収まりきらないのがティリッヒの足跡。 本書は初期の労作ながら、その広汎な関心と足跡を提示してくれる「学問論」。ティリッヒは歴史的現象としての個別の諸科学を「思惟科学」「存在科学」「精神科学」の三つに分類する。そして人間精神の創造物として諸学を体系的に捉えることでその包括的理解をめざしている。 震災以降明らかになったのは、学問の細分化による目くらまし。その欺瞞の地平をうつホーリズムの萌芽とみてとれる。 ともあれ、本書は、知への膨大な関心……それはとりもなおさず(先に言及した通り)「人間」に対する無限の関心……をもっていたティリッヒの思索の軌跡を浮かび上がらせてくれる。 神学者であるけれども、20世紀最大のフマニストとしてのティリッヒ。 枠を取り払ってくれます……ね!

Posted by ブクログ

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