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革新幻想の戦後史
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商品詳細
| 内容紹介 | |
|---|---|
| 販売会社/発売会社 | 中央公論新社 |
| 発売年月日 | 2011/10/24 |
| JAN | 9784120043000 |
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革新幻想の戦後史
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商品レビュー
4.2
11件のお客様レビュー
進歩派知識人ってなんだろうを知るうえで最適な一冊だと思う。彼らの学術界の影響力の大きさ、その歴史。 私はここ最近の左派や革新主義に疑問を持つ事が多くなった。そう感じるのは年を重ねたせいかもしれないが、それ以上に彼らがこの世界でどれだけ影響力を有していることは知りもしなかった。 学...
進歩派知識人ってなんだろうを知るうえで最適な一冊だと思う。彼らの学術界の影響力の大きさ、その歴史。 私はここ最近の左派や革新主義に疑問を持つ事が多くなった。そう感じるのは年を重ねたせいかもしれないが、それ以上に彼らがこの世界でどれだけ影響力を有していることは知りもしなかった。 学者の言うことはいかにも正しいが、何かがおかしい。 なぜならば学者の世界はヒエラルキーがあるからだ。 そして学術、メディア、ジャーナリズムを含めて知的共同体というさらに大きなヒエラルキーもある。 例えば、経済構造のヒエラルキーが産み落とす格差、搾取を学者が論じる時、どこか言葉にすることだけが自分の使命だと思っている節がある。 医師の職業で例えると診断するだけの簡単な仕事。 この本を手に取る方は年齢が高いと思う。 なぜなら本書にたどり着くのには、ある程度の人生経験と時間がかかるからだ。 そして今の若者もいずれこの本を手に取る時が来ると思う。
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2011年出版。竹内洋の個人的な体験や経験についての話も多い。筆者は佐渡島で育ち、京都大学卒業後民間企業へ一旦就職するも、辞職し大学院へ進学。大学教授になった。1942年生まれの筆者が学生時代の頃には、言論界やキャンパス内は岩波朝日的な進歩的風潮が支配的であったようである。今日で...
2011年出版。竹内洋の個人的な体験や経験についての話も多い。筆者は佐渡島で育ち、京都大学卒業後民間企業へ一旦就職するも、辞職し大学院へ進学。大学教授になった。1942年生まれの筆者が学生時代の頃には、言論界やキャンパス内は岩波朝日的な進歩的風潮が支配的であったようである。今日でも未だにその風潮は残っているように感じるが、当時よりは現在の方が「リアリスト」が増えているのではなかろうか。福田恆存を好意的に紹介するあたり、筆者は当時から進歩的文化人には思うところがあったのだろう。菅義偉内閣のときに発生した日本学術協会の問題を見るに、未だに人文科学や社会科学の世界では「進歩的文化人」の価値観が幅を利かせているようである。筆者の個人的な想いが強いが、面白く読めた。
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本書の帯には「左派にあらざればインテリにあらず、という空気はどのように醸されたのか」とある。確かにこれが本書の主題であり、それはそれで興味深く読んだのだが(それにしても、福島の原発事故後、「無念共同体」は生まれても「悔恨共同体」が生まれなかったのは何故だろうか。脱原発派に悔恨感情...
本書の帯には「左派にあらざればインテリにあらず、という空気はどのように醸されたのか」とある。確かにこれが本書の主題であり、それはそれで興味深く読んだのだが(それにしても、福島の原発事故後、「無念共同体」は生まれても「悔恨共同体」が生まれなかったのは何故だろうか。脱原発派に悔恨感情はあまり感じられない)、個人的には終章に戦慄した。 著者は、1960年代前半までの大衆レベルにおける日本の保革対立は、イデオロギーの対立ではなく、伝統主義(封建的なもの)とモダニズム(近代的なもの)の対立であったと見る。これが1960年代半ばになって、欧米流の生活様式が浸透してくると、大衆レベルにおいて伝統主義は影響力を喪失する。そうして伝統主義という敵を失ったとき、戦後民主主義は「自己主張や権利という名のもとでの抑制なき露骨な欲望の奔流とな」(p.504)って、今日の大衆クレーマー社会を形作っていく。そして、この現代大衆社会においては、不特定多数のクレーマーが伏在している以上、全ての人間が「漠然とした大衆=幻想としての大衆」の目に怯えながら生きていくことを余儀なくされるという。 「テレビのコメンテーターの発言が陳腐なのは、幻想としての大衆を想定した無難コードの無形圧力に依っているからである。……いまや一望監視装置を司るのは、変幻自在な『幻想としての』大衆という見えない権力である。政治家もマスコミ人も『幻想としての大衆』を想定しながら、活動し、操りながら、操られている。……これは、トクヴィルの言う『多数の圧制』とはちがう。想像された多数者による監視社会である」(p.511-2) 確かにそうだ。無難コードから外れた言動(=燃料の投下)は、場合によっては「炎上」を招く。だが、常に炎上するとは限らない。燃料が投下されても、誰がどういう場合に「着火」するかは分からないからだ。だから誰もが炎上を恐れて、(幻想としての)大衆におもねった当たり障りのない言動に終始する。「幻想としての大衆による監視社会」という新しい時代が到来し、新たな形の自己規律化が始まったのである。 民主主義と教育の大衆化の帰結がこのような「大衆幻想国家」だったとする著者の知見に接して、「歴史の狡知」というものに改めて思いを馳せざるを得ない。
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