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革新幻想の戦後史
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 中央公論新社 |
発売年月日 | 2011/10/24 |
JAN | 9784120043000 |
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革新幻想の戦後史
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商品レビュー
4.1
9件のお客様レビュー
本書の帯には「左派にあらざればインテリにあらず、という空気はどのように醸されたのか」とある。確かにこれが本書の主題であり、それはそれで興味深く読んだのだが(それにしても、福島の原発事故後、「無念共同体」は生まれても「悔恨共同体」が生まれなかったのは何故だろうか。脱原発派に悔恨感情...
本書の帯には「左派にあらざればインテリにあらず、という空気はどのように醸されたのか」とある。確かにこれが本書の主題であり、それはそれで興味深く読んだのだが(それにしても、福島の原発事故後、「無念共同体」は生まれても「悔恨共同体」が生まれなかったのは何故だろうか。脱原発派に悔恨感情はあまり感じられない)、個人的には終章に戦慄した。 著者は、1960年代前半までの大衆レベルにおける日本の保革対立は、イデオロギーの対立ではなく、伝統主義(封建的なもの)とモダニズム(近代的なもの)の対立であったと見る。これが1960年代半ばになって、欧米流の生活様式が浸透してくると、大衆レベルにおいて伝統主義は影響力を喪失する。そうして伝統主義という敵を失ったとき、戦後民主主義は「自己主張や権利という名のもとでの抑制なき露骨な欲望の奔流とな」(p.504)って、今日の大衆クレーマー社会を形作っていく。そして、この現代大衆社会においては、不特定多数のクレーマーが伏在している以上、全ての人間が「漠然とした大衆=幻想としての大衆」の目に怯えながら生きていくことを余儀なくされるという。 「テレビのコメンテーターの発言が陳腐なのは、幻想としての大衆を想定した無難コードの無形圧力に依っているからである。……いまや一望監視装置を司るのは、変幻自在な『幻想としての』大衆という見えない権力である。政治家もマスコミ人も『幻想としての大衆』を想定しながら、活動し、操りながら、操られている。……これは、トクヴィルの言う『多数の圧制』とはちがう。想像された多数者による監視社会である」(p.511-2) 確かにそうだ。無難コードから外れた言動(=燃料の投下)は、場合によっては「炎上」を招く。だが、常に炎上するとは限らない。燃料が投下されても、誰がどういう場合に「着火」するかは分からないからだ。だから誰もが炎上を恐れて、(幻想としての)大衆におもねった当たり障りのない言動に終始する。「幻想としての大衆による監視社会」という新しい時代が到来し、新たな形の自己規律化が始まったのである。 民主主義と教育の大衆化の帰結がこのような「大衆幻想国家」だったとする著者の知見に接して、「歴史の狡知」というものに改めて思いを馳せざるを得ない。
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想像していたのは総論のようなもう少し大きな枠組みのものだったのだけれど、これはこれで興味深く読んだ。いくつかの具体的事例をもとに「進歩的文化人」的なものの世間との乖離を衝く。バイアスは明らかだけれどもところどころに相対化する視点が入っているおかげであまり鼻につくことなく読めるのは...
想像していたのは総論のようなもう少し大きな枠組みのものだったのだけれど、これはこれで興味深く読んだ。いくつかの具体的事例をもとに「進歩的文化人」的なものの世間との乖離を衝く。バイアスは明らかだけれどもところどころに相対化する視点が入っているおかげであまり鼻につくことなく読めるのはグッド。
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教育社会学の中では、放送大学等でもお世話になった竹内洋先生の教授として、最後の大作ではないだろうか。 大学時代を90年代に過ごした自分としては、右翼・左翼の区別はついても、安保反対闘争やマルクス経済学などが大きな力を持っていた時代ははるかかなたでり、当時の雰囲気を知ることは困難...
教育社会学の中では、放送大学等でもお世話になった竹内洋先生の教授として、最後の大作ではないだろうか。 大学時代を90年代に過ごした自分としては、右翼・左翼の区別はついても、安保反対闘争やマルクス経済学などが大きな力を持っていた時代ははるかかなたでり、当時の雰囲気を知ることは困難である。 この本は、自分史と言われるように、竹内先生の出身の佐渡島の選挙や雰囲気、大学時代、2年間だけの生命保険会社のサラリーマン時代、そして大学院に入っての研究や、東京大学の人事権の争いなど、ある部分は竹内先生の目を通して、ある部分では客観的な記述として、追体験ができるような気がする。 個人的には歴史というのは人が作るものではなく、歴史の必然性から産み出される面が大きいような気がするが、いろいろな人物や活動歴を見ていても、そのような時代のだったのだと思う。最終章にあるように、日本の今後を憂いているようにも思える。「愚者は経験に学び、智者は歴史に学ぶ」というビスマルクの格言通り、この書の歴史から学ぶことは多いような気がする。
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