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教如上人と東本願寺創立 本願寺の東西分派

教学研究所(著者)

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 東本願寺出版部
発売年月日 2004/08/01
JAN 9784834103267

教如上人と東本願寺創立 本願寺の東西分派

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2020/09/12
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 織田信長が、母の愛を受けた弟を謀殺する『麒麟がくる』のシーンは印象的でしたが、その信長を信用せず大坂本願寺に籠城した石山合戦では父顕如に義絶されても最後まで抵抗した教如。  教如は毛利に援軍を求めて自ら備後福山に赴き、足利義昭の仲介で毛利水軍の救援を得るなど活発な様子がわかります。  本願寺の東西分立の起因は母が弟の准如を溺愛し、既に『留守職』(教団トップ)にあった教如に対して、母が有馬で湯治していた秀吉に顕如から准如への『留守職譲状』を提示。秀吉もそれを偽書※と看過していても、政治的判断により准如を後継と裁定した。(※西本願寺は偽書ではないとしているようです)教如はその後も活動を続け、秀吉のお膝元大坂に一寺を創立、秀吉はなぜか黙認しています。  関ヶ原合戦の前夜の頃に、教如は関東の徳川家康と面会します。利休と親しい関係にあった教如は反三成派と目されており、帰路には三成派に襲撃されますが、門徒が防戦します。合戦後に家康側近の本多正信の『本願寺は秀吉時代に二本になられている、右の通りになられてしかるべきである』との献言もあり、家康から東本願寺の土地を与えられ、創立を成したとのこと。  当時の判断として実質的には分立していた本願寺を追認したもので、通説の家康が分断したものではないとの説。しかし本書によれば関ヶ原合戦の前後、教如は6回家康と面談しています。教如の活動がなければ、東本願寺の創立はなかったに違いないと思われます。(会談の内容は不明ですが、三成派との闘争・関ヶ原合戦が長引けば教如が徳川派として立つことも有り得た?)  東本願寺で購入した本書は教学研究所編ではありますが、史料に基づき教如の『戦国武将』としての交流関係もわかりやすく示しており、大変面白い内容でお勧めします。  あとがきに『戦国時代の本願寺が仏教の名のもとに多くの血を流したことはよくよく考えなければならないことである』とあります。  本書には述べられていませんので、以下私見となりますが、中興の祖と言われる蓮如が 『王法為本』あるいは 『外には王法をもはらにし、内心には仏法を本とすべきあいだの事』とし、 明確に現世権力(守護・地頭)に対する一揆を禁止していたものが、次の門主実如は王法と本願寺のかかわりを一転し、河内・和泉の門徒に畠山義豊と河内で戦っていた細川政元に味方するように指令を出しますが、門徒が 『開山上人(親鸞)以来左様の事、当宗になき御事に候 』と拒否します。(門徒は畠山氏と親密でもあったようですが)その後門徒への統制が進み、  次の門主証如は細川晴元に味方して摂河泉三万の門徒を率い晴元方の河内飯盛山城を包囲していた畠山義宣を破り、堺の三好元長(三好長慶の父)を法華宗の顕本寺で自害させます。  その翌月、一揆は大和の興福寺を焼き討ち、この勢いを恐れた細川晴元は逆に洛中に勢力を誇った法華一揆と組んで同年八月に山科本願寺を焼き討ちします。そのため、証如は大坂に本拠を移します。  また詳細は不明ですが、証如は天文七年(1538)二月、北近江で家来(内衆)の下間頼秀を『前代未聞の緩怠』があったとして暗殺しています。  次の門主顕如は門徒が従わない場合は勘気(破門)、さらに門主の意志に背いた一揆は生害(死刑)とします。顕如は宗門を護るため、宗教組織を上意下達で血の犠牲を伴う武装組織に変貌させたと言えます。  本願寺は信長包囲網の中核として、現世の権力信長と戦い、あとがきのとおり多くの犠牲を出します。門徒を死に導いた『進者往生極楽、退者無間地獄』の旗印は仏教的には虚言と思います。石山合戦450年の年に本願寺としての反省はないのでしょうか?  

Posted by ブクログ

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