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キリスト教は信じうるか 本質の探究 講談社現代新書
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 講談社 |
発売年月日 | 1991/12/01 |
JAN | 9784061156432 |
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キリスト教は信じうるか 本質の探究
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キリスト教と禅の双方から影響を受けた著者が、みずからの信仰の経緯を語りつつ、現代における信仰のあり方を考察している。 著者は、ドイツで新約聖書学を学んでいたときに、『碧巌録』の「廓然無聖」という言葉に出会ったことがきっかけで、観念の支配を脱したあるがままの世界に触れることになっ...
キリスト教と禅の双方から影響を受けた著者が、みずからの信仰の経緯を語りつつ、現代における信仰のあり方を考察している。 著者は、ドイツで新約聖書学を学んでいたときに、『碧巌録』の「廓然無聖」という言葉に出会ったことがきっかけで、観念の支配を脱したあるがままの世界に触れることになったという体験を語っている。十字架の贖罪の信仰は、人間によって構築された自分自身に関する観念性を否定することの重要性を著者に教えた。だが、『碧巌録』が著者に教えたのは、そうした自分自身に関する観念が、人や世界の真のありようを一方的に意味づけ歪めていること、そしてそうした歪んだ認識が、現実の世界の方から否定され、正されるという体験だった。このことを著者は、仏教は「自己を無にする」ということのより広い意味を教えてくれた、と表現している。 だが、これに続く著者の議論には、多少の疑問を感じる。著者は、「自己を無にする」ことによって、私たちの実存の根底である「自然」が開かれてくることを論じている。この「自然」において事物が相互に関係するあり方は「統合体」と呼ばれるのだが、著者は、単なる音の集合を越えて音楽が成立する事態や、生命体における有機的結合などの例をあげて、そこから上昇することで人格相互の交わりとしての「統合体」に至ろうとする。だが、端的に言って、そこにはハイデガーの「存在論的差異」と同様の事態が見落とされているのではないか、という気がしてならない。あらかじめ構築された観念から自己と世界について理解するような立場を脱して「自己を無にする」というとき、「脱‐底」(Ab-grund)の自覚が成立しているはずなのに、本書ではそのことが十分に顧みられていない。 著者は、キリスト教の側から寄せられるであろう批判を想定して、「表面の区別にとらわれる人だけが、これは仏教的だ、などと言い出すのである」と述べているが、個人的には、本書で語られている思想はさほど仏教的だとも思われなかった。
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