1,800円以上の注文で送料無料

キリスト教は信じうるか 本質の探究 講談社現代新書
  • 中古
  • 書籍
  • 新書

キリスト教は信じうるか 本質の探究 講談社現代新書

八木誠一(著者)

追加する に追加する

キリスト教は信じうるか 本質の探究 講談社現代新書

定価 ¥641

330 定価より311円(48%)おトク

獲得ポイント3P

在庫なし

発送時期 1~5日以内に発送

商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 講談社
発売年月日 1991/12/01
JAN 9784061156432

キリスト教は信じうるか 本質の探究

¥330

商品レビュー

2

1件のお客様レビュー

レビューを投稿

2013/10/29

キリスト教と禅の双方から影響を受けた著者が、みずからの信仰の経緯を語りつつ、現代における信仰のあり方を考察している。 著者は、ドイツで新約聖書学を学んでいたときに、『碧巌録』の「廓然無聖」という言葉に出会ったことがきっかけで、観念の支配を脱したあるがままの世界に触れることになっ...

キリスト教と禅の双方から影響を受けた著者が、みずからの信仰の経緯を語りつつ、現代における信仰のあり方を考察している。 著者は、ドイツで新約聖書学を学んでいたときに、『碧巌録』の「廓然無聖」という言葉に出会ったことがきっかけで、観念の支配を脱したあるがままの世界に触れることになったという体験を語っている。十字架の贖罪の信仰は、人間によって構築された自分自身に関する観念性を否定することの重要性を著者に教えた。だが、『碧巌録』が著者に教えたのは、そうした自分自身に関する観念が、人や世界の真のありようを一方的に意味づけ歪めていること、そしてそうした歪んだ認識が、現実の世界の方から否定され、正されるという体験だった。このことを著者は、仏教は「自己を無にする」ということのより広い意味を教えてくれた、と表現している。 だが、これに続く著者の議論には、多少の疑問を感じる。著者は、「自己を無にする」ことによって、私たちの実存の根底である「自然」が開かれてくることを論じている。この「自然」において事物が相互に関係するあり方は「統合体」と呼ばれるのだが、著者は、単なる音の集合を越えて音楽が成立する事態や、生命体における有機的結合などの例をあげて、そこから上昇することで人格相互の交わりとしての「統合体」に至ろうとする。だが、端的に言って、そこにはハイデガーの「存在論的差異」と同様の事態が見落とされているのではないか、という気がしてならない。あらかじめ構築された観念から自己と世界について理解するような立場を脱して「自己を無にする」というとき、「脱‐底」(Ab-grund)の自覚が成立しているはずなのに、本書ではそのことが十分に顧みられていない。 著者は、キリスト教の側から寄せられるであろう批判を想定して、「表面の区別にとらわれる人だけが、これは仏教的だ、などと言い出すのである」と述べているが、個人的には、本書で語られている思想はさほど仏教的だとも思われなかった。

Posted by ブクログ

関連ワードから探す

関連商品

同じジャンルのおすすめ商品

最近チェックした商品