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キリスト教の人生論 神と人との出会い 講談社現代新書
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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 講談社 |
発売年月日 | 1991/12/01 |
JAN | 9784061155732 |
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キリスト教の人生論 神と人との出会い
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本作は、2006年に読んだ作品です。 17年前になりますか、早いものです。 著者、桑田秀延さん、どのような方かというと、ウィキペディアには、次のように書かれています。 ---引用開始 桑田 秀延(くわだ ひでのぶ、1895年2月28日 - 1975年4月16日)は、日本基督...
本作は、2006年に読んだ作品です。 17年前になりますか、早いものです。 著者、桑田秀延さん、どのような方かというと、ウィキペディアには、次のように書かれています。 ---引用開始 桑田 秀延(くわだ ひでのぶ、1895年2月28日 - 1975年4月16日)は、日本基督教団の神学者、牧師。東京神学大学初代学長、フェリス女学院長。 ---引用終了 で、本作の内容は、次のとおり。 ---引用開始 四国の裕福な家庭に生まれた少年が、幼くして生家の破産を経験し、富や権勢の空しさを知り人生の真実を求めて洗礼を受けた。以来数10年にわたるキリスト者としての信仰生活、神学者としての思索を倦むことなく続けてきた著者が、愛とは何か、罪とは何かなど、人生の根本問題を静かに語りかける。「意志としての信仰」を貫いた人生の達人のみが持ちうる説得力に満ちた声が、読者の心にしみ入るにちがいない。 やわらぎ――近ごろ、われわれのあいだで重要視されている「話しあい」とか「対話」とかは、たしかに望ましいことにちがいありませんが、いつも「対話」をさまたげる厚い壁のようなものがあり、容易にはおこなわれません。根本的には、私も私の相手も、そして皆のものがまず神とのあいだに「やわらぎ」を得ることが必要です。人間のあいだの話しあいは、私たちそれぞれが、まず神とのあいだに、やわらぎをもつことからはじまります。神と人間の人格的なやわらぎの成立が前提になります。今日、宗教は軽んじられていますが、人と人との出会いにおいても、宗教の意味は人びとが常識的に考えているものよりはるかに深く大いなるものだと私は考えます。――本書より ---引用終了 著者の尊敬する人物に、山室軍平という方がいるそうです。 ウィキペディアを見ると、次のように書かれています。 ---引用開始 山室 軍平(やまむろ ぐんぺい、1872年9月1日(明治5年7月29日。戸籍上は8月20日) - 1940年(昭和15年)3月13日)は、日本の宗教家。説教者。日本人初の救世軍士官(牧師)で、日本人初の日本軍国司令官(日本軍国初代司令官ではない)。最終階級は中将。岡山県哲多郡則安村(現在の新見市)生まれ。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。 ---引用終了
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いつだったか、こういう考え方に触れたことがある。 「なぜ、神はわざわざ禁断の果実を設けたりしたわけか?そこには神の悪意が見え隠れしてはいないか?あるいは、合理的に考えればこの一件は神の監督不行き届きになるのではないか?」 無論、神は人を試したのだとも言えるだろうし、そこには信頼が...
いつだったか、こういう考え方に触れたことがある。 「なぜ、神はわざわざ禁断の果実を設けたりしたわけか?そこには神の悪意が見え隠れしてはいないか?あるいは、合理的に考えればこの一件は神の監督不行き届きになるのではないか?」 無論、神は人を試したのだとも言えるだろうし、そこには信頼があっただろう、信頼を裏切ったのは人だと反論がくるかもしれない。また、神は形而上的な存在なので、合理的に考慮するということ自体がおかしいのだという反駁も喰らうであろうが、しかし、この悪意や監督不行き届けという考え方自体が純粋に面白いと感じた。無神論が幅を利かせている日本で育って、そういう考えた方をもてなかったのだから自らの了見が狭いのだなとしみじみと感じた。 翻って、ニーチェは、 「神は死んだ。人に、同情したがために死んだ」 「原罪を持っていると思うことこそが原罪なのだ」 「救い主はもし私くらい歳を経ていたらならば、間違いなくその考え方を変えたであろう」といったことを述べている。確かにキリストは三十二歳くらいで死んでいる模様。三十二。無論、年齢なんて一つの要素でしかなくて、年齢ではねつけるという考え方は浅はかであるものの、二千年間も存続している宗教を起こした人物である点を考慮すれば、やはり、より長く生きていれば考え方が変わっていてもおかしくないであろう。 「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」以上はマルクスの文言である(ちなみに、本著で著者はマルクス主義を肯定的に捉えている様子)。マルクスはアヘンと批判しているものの、しかしこれは批判なのは文脈を辿ればわかる。不幸の表現であり、不幸への抗議。ここに宗教の必要性が述べられている。 個人的にはキリスト教に対する批判を並べてみる。個人的にも、やはりキリスト教いや宗教そのものには肯定的になれないところがある。確かに、宗教はぶれない芯をつくれるだろう、しかし、「ぶれて揺れることこそが生きるということなのではないか?」という信念が個人的にはあるので、それゆえに、個人的には宗教を信仰しようとは思わない、しかし、宗教的な概念や考え方自体が嫌いというわけではない。あまり原理を追究されると困惑するものの、そうかといって原理をおろそかにしていると、なんだ、この程度かとも思ってしまうのだから、なんだか申し訳なくも感じる。ちなみに、片想いするのは精神的に弱い人間だと述べていらっしゃって、そのあたりはあんまりにも酷いなと感じていたら、自分で勉強ばっかりしていて恋も経ないまま穏やかに生きてきたと述べておられる。人間は経験だ。経験していないことはやはりわからない。頭でわかってもわからない。疑似体験してもそれでもわからない。わかったつもりになっているだけだろう。無論、そのわかったつもりに救われる人も多いのだ。誰しもが求めているものは共感なのだから。 もう、四十年以上も前に書かれた書物であるが、酷くわかりやすくてキリスト教のよい入門書となりうると思う。以前はわかりやすそうな文庫にばかり走ってたいたけれど実はああしたものは内容が薄くて、読んだ後も結局のところ軽く齧っただけで終わってしまい、時間を経れば全て消えてなくなってしまうことが多いのだなとこの頃ようやく理解できるようになった。この著書は著者の晩年の著作らしく(正確には文章化したのは別の人物であるが)、それゆえにかなりぶっちゃけて述べている。戦時中キリスト教が天皇崇拝に加担したという点について、下部では誰もまともには文書を読んでいなかっただの、靖国の国営化への反対や、現人神だからといって拝むわけにはいかない、などなど。 そういえば、ショーペンハウエルでよかったのか知らないが、哲学者は無神論に走っても最終的には神へと戻ってくるということを述べていた気がする。個人的にはキリスト教を信じようとは思わないのだが、どうにも、世界は予定運命的に回っているように感じるのだ。このようなことを地震の後に言うのはどうにも憚られるのだが、それでも、中島らもの、「人間にはみな「役割」がある。その役割がすまぬうちは人間は殺しても死なない。逆に役割の終わった人間は不条理のうちに死んでいく」という言葉が印象的に頭に残っている。
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