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ディスコルシ 「ローマ史」論 ちくま学芸文庫
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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 筑摩書房 |
発売年月日 | 2011/03/11 |
JAN | 9784480093523 |
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商品レビュー
4.2
8件のお客様レビュー
君主論とかぶる部分も多いが、全体としてはより具体的な実例に裏打ちされている。特に第二章以降は参考になることが多い反面指示代名詞が多いため何の話をしているかわからなくなる箇所も多かった。運命を受け入れること、その中で幸運を願うこと、軽蔑や悪口は憎まれるもとで無益、相手が倒れた後自分...
君主論とかぶる部分も多いが、全体としてはより具体的な実例に裏打ちされている。特に第二章以降は参考になることが多い反面指示代名詞が多いため何の話をしているかわからなくなる箇所も多かった。運命を受け入れること、その中で幸運を願うこと、軽蔑や悪口は憎まれるもとで無益、相手が倒れた後自分が後につくには自分がその近くにいなくてはいけないなど今まで見てきた会社の政治とよく似ていた
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現代の政治を考えても、思い当たることがある箇所もあり、人間は500年以上たっても、本質はそうそう変わらないと思いました。
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マキャヴェリは思想家とは言えても決して哲学者ではない。フィレンツェ社会の荒波でもまれた経験から育まれた彼の「教訓」はパワー・ポリティクスに基づく実践的な処世術ではあっても、善悪の価値判断を伴わないし、たぶん彼には信仰心は無い。 本書は古代ローマの歴史をたどりながら、当時のフィレン...
マキャヴェリは思想家とは言えても決して哲学者ではない。フィレンツェ社会の荒波でもまれた経験から育まれた彼の「教訓」はパワー・ポリティクスに基づく実践的な処世術ではあっても、善悪の価値判断を伴わないし、たぶん彼には信仰心は無い。 本書は古代ローマの歴史をたどりながら、当時のフィレンツェを含めたヨーロッパ社会に適合するような、政治的教訓を取り出していこうとする努力の結晶である。「君主論」では君主制が絶対的なものとして支持されているかのように見えたが、ここでは古代ローマ的共和制を、少なくとも冒頭の辺りでは賛美しているかに見える。 たぶんマキャヴェリは、政体に関しては何が良いとかいう判断をすることを、最初から放棄しているのだろう。現に与えられた枠組みの中での、政治判断を評論するようなスタンスは一貫しており、善-悪論に傾いた近代以降の思想家・哲学者達とは一線を画しており、私たちにはそれが異様に映るのである。 だが彼の持ってくる「教訓」はどうだろう。複雑系科学に依拠するダンカン・ワッツの『偶然の科学』を先日読み、「結果から歴史をさかのぼってあの時のあの行動はああだったとかいう断定は、多くの人が陥りがちな知的過ちである」という見方を体得してしまった私から見れば、ここでのマキャヴェリの「教訓」はすべて、これ式の「結果オーライ」的な断定に満ちているように思える。 国が存続をつづけ繁栄するならば、権力者は人を何人殺してもよい、とするマキャヴェリ的テーゼは、結果が良かった(ように思える)からそう言えるのであって、臣下や庶民を無数に殺した権力者が結局良い統治者だったか、悪い統治者だったかは、将来の結果を見なければ判断しようがないのである。 そしてその「結果」は、ダンカン・ワッツ的に見るならば、ひとつふたつの原因によって到来するのでは無く、無数の要因や条件が重なって、ほぼ「偶然のように」やってくる未来でしかないはずなのだ。 後半、戦争に関する術策を評論するマキャヴェリは実に生き生きとして書いている。自分自身の政界での体験や歴史的な本を沢山読んで得た彼の「処世術」は、たぶんその人生から必然的に生まれた有機的生命ではあるのだろう。15−6世紀にこのようなディスクールを展開したこの高名な著者の、歴史上の重要性を、私は否定する気はない。むしろ、彼がこのように「書いた」という現象を、興味深い史実として受け止める。 それでも、「結果」から遡行して「原因」をたぐり寄せようとする貪欲な知的欲求に関しては、現代のパラダイムにおいては、そのままで価値があるものとは思えないのも確かなのだ。この貪欲な「原因」の要求については、確かに近代的な知の前兆として、見事なものではあったとしても。
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