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さよなら、ニッポン(2) ニッポンの小説
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さよなら、ニッポン(2) ニッポンの小説

高橋源一郎【著】

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さよなら、ニッポン(2) ニッポンの小説

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 文藝春秋
発売年月日 2011/02/20
JAN 9784163736907

さよなら、ニッポン(2)

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商品レビュー

4.1

9件のお客様レビュー

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2012/05/06

前回は評論的だったけど、今回は小説的。 後半失速したのは否めないから、本当は☆3.5くらい。 「権威の象徴でもあった文学」はすっかりもう見る影もない。変化が起ったのはたぶん80年代くらい? 今でもそれに気づいていない人もいるが、「文学的」な小説のはじまり方や、文体や話の展開など...

前回は評論的だったけど、今回は小説的。 後半失速したのは否めないから、本当は☆3.5くらい。 「権威の象徴でもあった文学」はすっかりもう見る影もない。変化が起ったのはたぶん80年代くらい? 今でもそれに気づいていない人もいるが、「文学的」な小説のはじまり方や、文体や話の展開などを支えていた「文学の場」というものはすっかり消失した。 三島とか志賀とか、これから若い世代には果たして読まれるんだろうか? でもって「これからの100年」の小説はいったい何を拠り所にすれば… 小説の正しいはじまりを書いた章では、ケストナーとカフカの小説を引用して……って前に著者の別の本で同じようなこと見たような。いや、見たけど。 うーん…特に「コレ」っというとっかかりがない。というものもおそらく、本書が小説的に書かれているから。ぼんやりと「あー、なんかそういう感じ」というブツブツが残る。ブツブツは「コレ」っという確固とした姿をしていないので、後でどのようなブツブツなのか考えてみることにしよう。

Posted by ブクログ

2011/08/29

綿矢りさの新しい小説を前にして「緊張」した、と書かれている。何か「新しいもの」を前にしての「緊張」だ。そして、かつては、「音楽や映画や小説や詩や美術で、多くの「黙契」が成立した。つまり「緊張」が、あちこちで見られた」と書く。自分にとっては高橋源一郎が、その著作を目の前にして「緊張...

綿矢りさの新しい小説を前にして「緊張」した、と書かれている。何か「新しいもの」を前にしての「緊張」だ。そして、かつては、「音楽や映画や小説や詩や美術で、多くの「黙契」が成立した。つまり「緊張」が、あちこちで見られた」と書く。自分にとっては高橋源一郎が、その著作を目の前にして「緊張」する数少ない作家だ。あとは村上春樹の長編小説くらいか。本書もある種の「緊張」を持って読み進めた。 高橋源一郎は、もちろん自分が知っている範囲なんだけれども、日本で一番「小説」について考えている人なんじゃないかとも思う。 小説と文学とは違う。「小説が読まれなくなったのではない。文学が読まれなくなったのだ。それは一時的な現象ではない。おそらく二度と、かつてのように、文学が必要とされることはないのである。だが、小説はちがう。いつも、現代を、あるいは、現在を生きようとするものだからだ。」 権威としての文学が存在した時代はあらかた終わってしまった。ここで扱われているものはもちろんそういうものではないのだ。 言語によって書かれたものについてのことなのだけれども、言語によって伝えることがとても難しいことを、これまでに得てきたツールを駆使してものすごく真摯に(ある意味必死の形相で)言語化しようとしている。 高橋源一郎の文章からは、言葉を前にして常に謙虚であろうという意志を感じることができる。「引用」に対する言及の仕方からもそのことが分かる。ずっと言葉に向き合ってるとこういうふうになっちゃったっていうことなのかもしれない。だって「「読むこと」が「生きること」だと(薄々)考えている」と書いてしまうほどなのだ。軽快なのだけれども、どこか必死でもがいている。この著作の中でも色んな試行をしている。それこそが小説的手法なのだと思う。 例えば、小説『真鶴』を取上げて、ひらがなが多いと指摘して、その効果について「強さ」や「速さ」を論じながら、そのことをひらがないっぱいで書いてみる。 ひらがなの効果の議論は自分にとっては新しい発見だ。さらには、ひらがなと漢字の区別があるのは日本語という言語の特異性だ。だとするとこの感覚は日本語を母語とするわれわれだけが感じることができる感覚だ。小説は異なる言語間で翻訳されうるが、同時に個々の言語と文化に根ざしているものであることが分かる。書き言葉となってのみ現れる違い。小説とは極めて書き言葉のものなのだ。 このひらがなのテーマは別の箇所にも出てくる小説におけるカメラと速度というテーマにもつながってくる。 ふと出されきたように書かれているが「カメラ」、「速度」、「時間」は、小説を語る上での高橋さんの新しい仕立てになっているような気がする。その解釈が正しいということではなく、そう考えることこそ私の自由だと言うのだろうけれども。 さて小説をこういう風に読むことができるというのはどういう気分なんだろうか。正確には小説をこういう風に読む、と書くことができるというのはどういう気分なんだろうか。この2つは微妙で大きな違いがあるよね。 「小説家たちも、書くのに忙しく、自分の書いている「文章」を、読んでいる暇がない。そういう「文章」で、多くの小説はできている。」ということを言うのに、『尋問調書』と映画『靖国』を持ってくるのもいい。『靖国』という映画を見たことがなくったって尋問調書を取られたことなんかなくったって、納得がいってしまうのがすごい。 さらには、実は高橋さんが無視できないと評価してこの著作含めて過去にも何度か取上げている小島信夫の『残光』も川上弘美の『真鶴』も猫田道子の『うわさのベーコン』も綿矢りさの『インストール』も読んだことがない。それでも分かる気になって、次を期待するのだ。すごくないか。 --- あとがきには『ニッポンの小説3』を書くのが自分の責務だとある。書くべきことはたくさんある、と。楽しみだ。 最近は高橋源一郎もTwitterでもつぶやいているが、これも『小説』の別の形を試しているのかもしれない。そうだ、この前Twitterで執筆中と教えてくれた今までで一番クレイジーな小説(予定)、そいつも楽しみだ。その著作を手にするとき、まだ自分は「緊張」を感じることができるのだろうな。

Posted by ブクログ

2011/06/27
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

こんなにエキサイティングな評論本は初めて。まず、はなから言葉を信用していないというスタンスに共感を覚えた。言葉はある程度まで現実世界を反映できるけれど、キャパシティを超えてしまうとたちまち嘘になってしまうことを承知の上で文章が書かれている。 著者は小説のことを、世界の秘密に触れることのできる手段だと捉えていて、それゆえ、型にはまってしまった文章かどうかをとても重要視する。というのも、現実世界そのものが、何かの形として捕まえ切れるような生やさしいブツではないこと。それゆえ、リアルな現実に対応しようとする文章は必然的に規格外な何かを内包することになる、ということ。 逆に考えると、定形におさまった文章が受け入れられやすいのは、思考が安定するからなのだろう。カオスな現実をなんとかわかりやすくしたいという願望の結果がたとえば「ミステリーの形式はこれ」「ロマンスの形式はこれ」「小説の形式は…(以下略)」というジャンル分けというか、読者の期待するジャンル像になるわけで。たしかにそれはそれで楽しいこともあるし、読後に充足感を得られることもある。 ただし、本気で世界と対峙しようとするなら、そしてその手段を言葉に求めるなら、型にはまった文章では役に立たない(らしい)。手探りで新鮮な言葉を探す作業が必要になるし、読む方もやはり手探りだ。 この評論はそうやってバトルしながら小説らしからぬ小説を読みといてゆく記録も兼ねていて、本当にわくわくした。

Posted by ブクログ

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