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ゼロ年代の論点 ウェブ・郊外・カルチャー SB新書
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | ソフトバンククリエイティブ |
発売年月日 | 2011/02/25 |
JAN | 9784797362145 |
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ゼロ年代の論点
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ゼロ年代の論点
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商品レビュー
3.6
15件のお客様レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
感想 ゼロ年代批評とかあんまり興味無いけどざっと理解しておきたいな…みたいな安直な考えで手に取って見たけどこの1冊で何かを理解しようとするのは無理だった。あとがきにも書いてあるけど固有名詞が多すぎる!笑。ある程度ゼロ年代批評本を読んでいて有名なその分野で有名な言論人(あずまんとか宮台先生とか浅田彰)の本を読んで理解してから読むことをおすすめします。ただ、社会学(特に文化論)みたいなものに興味があるけど、どこから手をつけていいか自分の関心があることについて語っている本がどこに置いてあるか分からない大学生にとってはロードマップ的な位置づけにもなると思う。 メモ ゼロ年代批評ってアニメ見てないと理解出来ないことが多くてそこが非オタや現代の大学生にとっては1つ目の挫折ポイントになってる気がするな…今どき「動ポモ」読んでる学生って文学部のサブカル野郎くらいでしょうし… この本には出てこなかったけど宇野常寛のサブカルチャー講義録みたいな本は読みやすくて良かったのでおすすめできる。京都精華大?かどっかの講義をそのまま文字起こししてまとめただけの本だから口語体で飲み込みやすい。 1番面白いなと思ったのは、第2章の「秋葉原通り魔事件とゲーム的現実感覚」の箇所。 グローバル化した新自由主義経済と「自己責任」を求めるようになった社会のあり方自体が、人生をゲーム的なものとして理解できないものに変えている。そのような世界では、常に「もしかして他の人生もありえたかもしれない」「他の選択肢を選べばもっと成功していたかもしれない」という不安に苛まれることになる。なんといっても同じような経験でそこそこ上手くいっているプレーヤーの情報が現代では溢れかえっているから。 ネットの日常レベルまでの落とし込みによるあらゆる階層の可視化とその格差や同階層での差異について妬みや自分の選択に対する不安といった、現実に対する「ゲーム的な」感覚が生きづらさを生んでいる。これはロスジェネ世代の「具体的な労働環境の厳しさ」とは全く別の水準である。 この辺りの話にちょっと心当たりがあるというか面白いなと思ったので 動ポモ2として書かれた「ゲーム的リアリズムの誕生」読まないとな…なんて思った。 あと面白いなと思ったのは三浦展の「ファスト風土化する日本」、国道沿いのエディオンで電化製品、ニトリで家具、ユニクロGUで服、丸亀マック丸源ラーメンで昼飯、東京靴流通センターで靴、晩飯はサイゼリアの生活が日本中のどこにいっても展開されていてその様をファスト風土っていうらしいんですけど、郊外に住んでいる自分からしたら郊外論とかは少し興味あるのでこの辺の内容について少し読んでみたいかなと思った。 ロードサイド論について特に興味があるから国道16号線スタディーズとか読みたい。 以上感想にもなっていない雑記メモでした。
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東浩紀さんのまわりの関係性が、この本を読むとよく分かります。 あまり深く追っかけているわけではないので、とても参考になりました。 入門書なので、深い突っ込みを期待する人には、物足りないかもしれません。 今活躍している人のスタート地点のようなものが分かります。
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人口の10%を占める大都会東京のそこそこの大学を出た輩が、ネット社会の諸問題をあーでもないコーデもないと岩波新書的な問いを立て、さも難題かのように(とにもかくにも社会学的に)云々する、ゼロ年代とはそんなもので、パソコンONでYahooページを毎日見るというライフスタイルを持つ人間...
人口の10%を占める大都会東京のそこそこの大学を出た輩が、ネット社会の諸問題をあーでもないコーデもないと岩波新書的な問いを立て、さも難題かのように(とにもかくにも社会学的に)云々する、ゼロ年代とはそんなもので、パソコンONでYahooページを毎日見るというライフスタイルを持つ人間同士のコミュニケーション。いずれにしても変わりゆくものを躍起になって捉えようとする情勢論を出ないし、どこかでその営みは(変わりゆくものがどうしようもない故に)退屈感焦燥感を発生させるだろう。ゼロ年代評論家といわれる小僧たちの、あの、なんともいえない焦った(つまり生意気な)感じは実はファシストへの小さな欲望の種を宿しているのでは、と指摘したくもなる。ともかく、ネットを駆使できる人間は情報を素早くゲットできるからこそ、実は社会に対する歪んだ優越性を持つ、さらには一人一人が「何の資格もなく! 何の条件も問われずに!」自前のメディアを持てるというのだから、ガキがくそ生意気になるもの当然。(一方で服装とは関係なくともかく茶髪にしたり、金髪にしたりする何ともいえないダサさも特徴的だが、、) ネット社会は「完全なる甘えた民主主義」に見えてしまうのだが、彼らはともかく変態フーコー的にあらゆるところに微細な「権力」を嗅ぎ取って、躍起になって「この世は窮屈なり」と謳う。 だから、彼らのその「許された言論」を許されたものとする「日本国憲法」に関しては「絶対に」批判することはない。しかし、この国の捻れた姿を問おうとすれば、必ず日本国憲法の成立過程の歪さに気づくはずだ。最も疑わしい、擬制的なものの上に自分たちの諸権利・自由なる言論がのっているということ、そのことが苛立ちの根本にある。戦後社会に生み出されたそこそこの小金持ちの家庭で、その親の庇護を受けながら、引きこもっているガキの何ともいえない苛立ち、と言えば良いか、、、。 ともかくわかったことはこの十年の小賢しい言葉の姿。「ファスト風土化」、「動物化」、「カーニバル化」、、、、なんじゃそら?
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