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日本の都市の封印された謎
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 彩図社 |
発売年月日 | 2011/01/01 |
JAN | 9784883927722 |
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日本の都市の封印された謎
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以前に県境等について解説された本を読んだことがありますが、日本の都市にも封印された謎があるようで、読み物としては興味があります。雑誌を読んでいるような感覚で楽しく読ませてもらいました。 将来時間ができた時には、ハイキング(散歩)を兼ねて、自分の目で封印されている謎の現場を見て...
以前に県境等について解説された本を読んだことがありますが、日本の都市にも封印された謎があるようで、読み物としては興味があります。雑誌を読んでいるような感覚で楽しく読ませてもらいました。 将来時間ができた時には、ハイキング(散歩)を兼ねて、自分の目で封印されている謎の現場を見てみたいと思いました。終戦直後には東京に200か所以上もあった米軍基地(p43)は、最終的に沖縄に集約されたのでしょうか。 また戦争があったこと自体を知らない人が増えている中で、いまだに年間200件もの不発弾処理がされている(p97)のは驚きです。 以下は気になったポイントです。 ・朝鮮戦争に参加していたアメリカ軍の払い下げ戦車が、東京タワーになった、全体の3分の1程度を占めたと言われる(p20) ・昭和21年1月29日に日本の領土に関するひとつの重要な取り決めが公表されて、伊豆諸島は3月22日に日本領となるまで東京都の管轄でも日本の管轄でもない地域になった(p24) ・日本から除外されてしまう地域として、小笠原諸島や「北緯30度以南の琉球」に属する沖縄や奄美大島、伊豆諸島も含まれていた(p25) ・第一生命保険のビルにGHQが設置され、最も多いときで40万人という進駐軍が派遣された(p26) ・京都に存在していた巨椋池の近くはしばしば洪水を起こして、治水対策を行ったが、その結果、水の循環が悪くなって昭和2年にはマラリア流行池に指定されたので、昭和8年には干拓工事が始まった(p33) ・1945年、終戦を終えたその日も、戦争終結に反対する兵士や学生が官邸を襲っている、当時の首相(鈴木貫太郎)はたまたま私邸にもどっていて事なきを得ている(p40) ・太平洋戦争の終わった後の東京には、じつに208か所もの米軍基地があった。占領時代が終わると縮小されて、1972年の沖縄復帰時には、10か所(2787ヘクタール)となり、1977年には立川基地(573ha)も返還されて昭和記念公園となった(p43) ・爆心地(広島)の地表温度は3000度以上に達して、建物の90%以上が壊滅、35万人のうち年末までに14万人が死亡し、原爆被害者は子孫もふくめて20万人を超えている(p57) ・南千住駅から数分歩いた場所の「小塚原刑場(斬首や獄門、磔)」は、江戸時代200年ほどで、20万人が処刑された場所である、八王子の「大和田」、品川の「鈴ヶ森」とともに江戸三大刑場であった(p58) ・埼玉県鳩ケ谷市には多くの不発弾が見つかる、帰還するアメリカ軍の爆撃機が機体を軽くするために投下したものと考えられる、関東で、年間200件以上の不発弾処理がされている(p97) ・明治時代に新宿1丁目から3丁目付近にあった女性を置く宿屋を、大正7年に新宿7年に二丁目付近に集めた、新宿は、甲州街道沿いの宿(内藤宿)が「内藤新宿」として発展したもの(p99) ・目黒競馬場が完成した1907年から競馬レースがおこなわれ、一時馬券販売が禁止になったこともあったが競馬法制定(1923年)から復活した、1932年にはダービーも開催されたが、1933年を最後に府中競馬場での開催となった(p127) ・平成17年当時には全国に3200ほどあった市町村(明治22年には7万)を、合併によって3分の1程度にスリム化した、目的の一つは各地域の厳しい財政状況を強化しようとしたことにある、合併特例法により合併後10年間は街づくりに必要な予算を一部交付できるようにした(p160) ・日本で電気が使われ始めたのは明治時代であるが、最初のころは火力発電が中心であった、需要が増えて追いつかなくなったために水力発電が本格化した(p174) ・海軍の統括機関である「鎮守府」が横須賀にあったが、太平洋に面していることから敵の攻撃を受けやすいので、瀬戸内海の内海に位置して攻撃を受けにくい「呉」が1989年(明治22)に「呉鎮守府」として指定、明治36年には呉海軍工廠(海軍直轄で兵器を製造する軍需工場)が操業開始した(p179) ・登戸研究所(明治大学生田キャンパスにあり)は、かつて陸軍科学研究所として開設されていて、生物化学兵器、偽札、風船爆弾(約9300発発射)、無線機・盗聴器等の研究、製造がされていた(p209) 2011/4/9作成
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