1,800円以上の注文で送料無料

  • 中古
  • 店舗受取可
  • 書籍
  • 文庫

青色本 ちくま学芸文庫

ルートウィヒウィトゲンシュタイン【著】, 大森荘蔵【訳】

お気に入りに追加 お気に入り 追加 追加する お気に入りに追加 お気に入り 追加 追加する に追加 に追加する

定価 ¥1,056

¥605 定価より451円(42%)おトク

獲得ポイント5P

在庫あり

発送時期 1~5日以内に発送

店舗受取サービス対応商品

店舗受取なら1点でも送料無料!

店舗到着予定

5/19(日)~5/24(金)

商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 筑摩書房
発売年月日 2010/11/10
JAN 9784480093264

店舗受取サービス
対応商品

店舗受取なら1点でも送料無料!
さらにお買い物で使えるポイントがたまる

店舗到着予定

5/19(日)~5/24(金)

商品レビュー

3.7

16件のお客様レビュー

レビューを投稿

2023/05/21

確かに読みにくい本だが、ウィトゲンシュタインが事例として挙げる問題を自分なりに丹念に追いかけていくとそれらがけっして浮世離れした次元の話ではなく、むしろ私たちの住む平凡な日常とつながっていることがわかる。なぜ私の発する言葉が通じるのか。なぜ人の感覚を私たちは言葉を通したことで理解...

確かに読みにくい本だが、ウィトゲンシュタインが事例として挙げる問題を自分なりに丹念に追いかけていくとそれらがけっして浮世離れした次元の話ではなく、むしろ私たちの住む平凡な日常とつながっていることがわかる。なぜ私の発する言葉が通じるのか。なぜ人の感覚を私たちは言葉を通したことで理解に至るのか。系統/筋道がはっきりせず、思ったことをつらつらと書きなぐっているような中身に辟易するのもわかる。しかし、別の言い方をすれば思索/思念の動きが実に生々しく捉えられる1冊でもあるとも思う。もっとゆっくり読むべき1冊なのかも

Posted by ブクログ

2022/11/05

 初期『論考』の「世界ー言語並行論」に基づく意味論的発想を離れ、中期の「文法」すなわち規則を重視する立場から後期『探求』の「言語ゲーム」への移行期における、ウィトゲンシュタイン(LW)の講義の口述録。ここではすでに「言語ゲーム」という言葉は表れているが、あくまで中期LWの特色であ...

 初期『論考』の「世界ー言語並行論」に基づく意味論的発想を離れ、中期の「文法」すなわち規則を重視する立場から後期『探求』の「言語ゲーム」への移行期における、ウィトゲンシュタイン(LW)の講義の口述録。ここではすでに「言語ゲーム」という言葉は表れているが、あくまで中期LWの特色である「文法」「ルール」に重きを置いた考察がなされており、後期のようにそこに我々の生活があって初めて実質が与えられる、という立場は取られていない。野矢茂樹氏の解説によれば、あくまで「文法」内での語の使用のされ方に焦点を当て「あてがわれるべきものと異なる文法を適用してしまうことにより生ずる我々の誤謬を治癒しよう」というのがここでのLWの狙いだという。  世界には数多の「文法」があり、そこでの語の使用は文法ごとに異なっており、恣意的ですらある。しかし語それ自体は共通して用いられることが多いため、我々は往々にして文法の適用を誤り混乱してしまう。LWは具体的な場面(有名な歯痛の例など)を挙げつつ、より混乱の少ない文法を提案するのだが、そもそもそのような混乱の根本にあるのは「一般名辞の意味を明確にするには全ての適用を通じて共通する要素を見つけねばならぬという考え」であるという。LWによればそのような要素は存在せず、あるのはただ語の使用によって付随的に浮かび上がってくる「家族的類似性」のみだというのだ。つまり語の意味というのは帰納的にしか把握できず、全ての語の意味を決定づける演繹の起点となるような「本質」など存在しないというのだ。確かにこの点からするとLWを論理実証主義者と呼びたくはなる。  後半はLWを論ずる上で避けて通ることのできない「独我論」。ここでもやはり基本となるのは「文法」であり、独我論的語りを可能にする(強いられる)のは「私的言語」、ただ自分の経験のみを表現することにのみ適した文法を有する言語なのだと論じられる。この私的言語は、指示対象と記号の対応関係がその発話主体にしか検証できないため、トートロジカルな無内容を必然的に含む。これが独我論的語りにまつわる違和感の正体だというのだが、どうやらその治癒方法までは本書では明らかにされないようである。

Posted by ブクログ

2020/07/23

 『論考』から『探求』に移行するまでの間に記されたWittgensteinの後期思想への入り口的な著作。Wittgensteinがケンブリッジ大学の少数の学生に口述した内容を元にしており、Wittgenstein自身の生々しい哲学的思考の軌跡をありありと見て取ることができる。  ...

 『論考』から『探求』に移行するまでの間に記されたWittgensteinの後期思想への入り口的な著作。Wittgensteinがケンブリッジ大学の少数の学生に口述した内容を元にしており、Wittgenstein自身の生々しい哲学的思考の軌跡をありありと見て取ることができる。  ここでのテーマは一貫して「語の意味とはなにか」ということであり、本は「語の意味とは何か」という文から始まる。ただ、この意味についての議論は、錯綜を極め、「望む」「期待する」「欲求する」という語を検討し始めたかと思うと、「知る」「推測する」という語について論じ始めるなど筋を追うのが難しい。本の最後は後期著作の大きなテーマとなっていた私的言語論の話題であり、「私は歯が痛い」という文を例にとり、独我論の論駁に費やされている。全体でいうと、前半は心の働きとされる諸概念にまつわる哲学的困惑について、後半は言語を通じた他我問題、独我論について論じている。  Wittgenstein自身のその解決法としては、日常言語の観察を主としている。日常での言葉の用法をつぶさに観察し、哲学的な用法での言い回しと日常言語との「文法」の相違に気付くことによって哲学的困難を解決しようとする。この本では、その実践をいやというほど目の当たりにできる。  後期の主要なテーマとなるアイデアが随所に現れており、「言語ゲーム」や「家族的類似性」「意味の使用説」(と我々が呼ぶ立場)、「意味の心像説批判」(と我々が呼ぶ立場)、規則順守のパラドックス、についてその思索の原型を眺めることができる。そして、この本では、これらの問題はすべてつながっていることを感じることができる。 ___________ ずっと読んでいると船酔いのような気持ち悪さがある。野矢茂樹の解説がなかったらちんぷんかんぷんで終わるだろう。むしろ、解説から読んだ方が良い。 だが、これをここまでの読める文章にした大森荘蔵はすごい。文中の訳者挿入にかなり助けられている。 Wittgensteinはいろいろあれがだめだ、これがだめだと言うけれども「本当にそうなのか?」という気持ちになる。これは私の理解がまだ生半可なのだろうが、「文法」が本当に異なっているのか? それを取り去ってもなお、哲学的困難は消えないのではないか? 意味については比喩や像を通すことによってしか得らず、把握できない意味があるのではないか? みたいな気持ち。何をそんなに目くじら立てて怒っているのかがよくわからない。細かいことをぐちゃぐちゃうるせえな、こいつは、みたいな気持ちにもなる。これは私に哲学をやるセンスがそもそもないかもしくは、この哲学的困難が私にとっては追求したいテーマではないのかもしれない、ということなのかもしれない。いや、「たしかにこいつの言うとおりだな」と思う箇所ももちろんあるのですが。赤色をイメージしろの話とか。規則順守の話とか。 というか、たびたび目にするWittgensteinから哲学的立場を取り出してはいけない、というのがやはりよくわからない。野矢自体は解説でそれは役に立つしありだと思う、って書いているがそもそもなぜだめなのかがよくわらかない。哲学的治療であることと哲学的立場を認定すること(表明すること?)は両立するのではないか?

Posted by ブクログ

関連商品

最近チェックした商品