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歴史の進歩とはなにか 岩波新書
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 岩波書店 |
発売年月日 | 1991/08/23 |
JAN | 9784004130024 |
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歴史の進歩とはなにか
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商品レビュー
4.4
5件のお客様レビュー
本屋で目につき事前情報もないままに購入しましたが、思った以上に面白い本でした。初版は1971年ということですから、50年近く前の書籍になりますが、今読んでも示唆が多く含まれています。 本書ではまず、18世紀フランスの思想家(チュルゴ、コンドルセ)やマルクスの考え方をもとに、近代...
本屋で目につき事前情報もないままに購入しましたが、思った以上に面白い本でした。初版は1971年ということですから、50年近く前の書籍になりますが、今読んでも示唆が多く含まれています。 本書ではまず、18世紀フランスの思想家(チュルゴ、コンドルセ)やマルクスの考え方をもとに、近代西欧には「非情的自然主義型」と「浪漫的理想主義型」の進歩思想が存在していることを指摘します。「非情的自然主義型」の特徴は、人間史を貫徹する法則が、まったく個々の人間の倫理的要請とは無関係に進歩が起こる、そして戦争など残虐な行為も、進歩の過程の一つだとみなす思想です(ゆえに非情的という形容詞がついている)。これには2つの流派があり、1つは神の意志の存在を前提にする流派(チュルゴ)、もう1つは神の意志ではなく、人間の営みの過程自体に進歩の法則性が内在されていると考えるような立場です(マルクス)。後者の「浪漫的理想主義型」とは、人間の倫理的側面が、衣食住が満たされるとともに徐々に発達し、さらに人間の理性的・科学的な認識能力の発達と主に、倫理的側面も必ず進歩する、と考える流派でコンドルセに代表される考え方になります。 このような2類型を提示したのちに、著者はいずれの考え方も今から振り返れば間違っていたこと、つまり「歴史の進歩の必然性」などないし(これはカール・ポパーの『歴史主義の貧困』の主張を想起させます)、ましてや科学技術が発達すると人間の倫理度が高まるなどといったことも妄想であることを指摘します(なぜなら人類を滅亡させる兵器を開発しているから)。 そしてこの後の展開が極めて興味深いのですが、著者は「進歩」の概念定義がそもそも間違っているという指摘をします。つまり「非情的自然主義型」にせよ、「浪漫的理想主義型」にせよ、これらの進歩観を主唱する人(国家)は、自分(自国民)の物理的、快楽的な進歩を追求しようとするわけです。今風に言えばGDPの最大化や効用の最大化こそが進歩の指標だ、ということになります。そうすると容易に起こりうるのが、外部から搾取したり他者に犠牲を強いたりした上で自身の「進歩」を達成しようという動きです。 そこで著者は進歩の指標に関する視点を180度転換させます。具体的には「各人が責任を問われる必要のないことから受ける苦痛を、可能な限り減らされている状態」が社会の進歩の尺度になるべきだ、という主張です。今風に言えば肌の色や出生地、家族が誰かとか生まれ育った文化的環境(宗教)で差別・迫害される人が少なければ少ないほど、その社会は進歩しているのだ、ということでしょうか。あるいはダイバーシティ&インクルージョンができているかどうかこそが社会の進歩の指標であるという主張になるのかと思います。これは、従来の普遍性や序列(優劣)視点の進歩論と、梅棹忠夫さん的な生態論(なぜなら多様性を肯定しているから)が混じりあった「進化した進歩論(あるいはジンテーゼとしての新進歩論」のようなものだと解釈しました。大変興味深い本でした。
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なにごとも二律背反(パラドクス)は避けられないのであれば、それを理解認識した上で行動をとるほかない。自らの幸せの裏に他人の不幸があるというのなら、自らが幸せに感じたときに、他人に対しその人の幸せに感じることをしてあげる、これでいいのではないか。 戦争や喧嘩で同胞を殺してしまうのは...
なにごとも二律背反(パラドクス)は避けられないのであれば、それを理解認識した上で行動をとるほかない。自らの幸せの裏に他人の不幸があるというのなら、自らが幸せに感じたときに、他人に対しその人の幸せに感じることをしてあげる、これでいいのではないか。 戦争や喧嘩で同胞を殺してしまうのは、穿った考えかもしれないが、これ以上数が増えると絶滅するというその種における絶対容量の、上限を超過しないようにするための、生物本能的仕組みなのではないか。絶対容量は環境によって勿論変化もするだろう。その時代時代、場所場所で、これ以上増えるとお互いにお互いの生存を脅かすかもしれないなどと本能で察知した場合に戦争や喧嘩が発生し、より強いものが生き残る。文中では、他生物が命乞いなどで喧嘩を回避するところを、人類は殺し合いするまでに“進化”したと書いていたが、他生物においても、数が増え、生存を脅かす存在(人間含む)よりも強大な集団になったとき、あるいは同族内の殺し合いが発生するのではないか。というより、現にムレのナワバリを争って殺し合いをする動物も存在しているはずだ。
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歴史の「進歩」という理念に対して厳しい批判がなされている現代において、あらためて歴史の「進歩」について考えなおし、その積極的な意義を救い出そうとする試みです。 著者はまず、西洋思想における「進歩」の概念史を整理し、進歩の理念の普遍性や、歴史のなかに生きる個人の実存としての意味と...
歴史の「進歩」という理念に対して厳しい批判がなされている現代において、あらためて歴史の「進歩」について考えなおし、その積極的な意義を救い出そうとする試みです。 著者はまず、西洋思想における「進歩」の概念史を整理し、進歩の理念の普遍性や、歴史のなかに生きる個人の実存としての意味との相克など、現代において進歩を論じる者が向きあわなければならない問題を明確にしています。 そのうえで著者は、日本の民衆史が明らかにした、彼らの抵抗運動のもつ思想的意義などを参照しながら、それぞれの時代のなかで典型的な「苦」を減らすことに、歴史の進歩の基準を求めるべきだという考えを提出しています。そして、現代のメタ倫理学やリゴリスティックな規範倫理学を批判しつつ、経験的合理性の枠組みのなかで上述の進歩をめざす実践を善とみなそうとしています。 鶴見俊輔らが主催する『思想の科学』の代表メンバーであり、日本を代表するポパリアンともいうべき著者らしい立場から、歴史の進歩の意義を力強く擁護するという、いわば反時代的な試みが展開されています。
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