- 中古
- 書籍
- 書籍
史記(Ⅰ) 覇者の条件 中国の思想
定価 ¥1,922
990円 定価より932円(48%)おトク
獲得ポイント9P
在庫なし
発送時期 1~5日以内に発送
商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 徳間書店 |
発売年月日 | 1983/02/01 |
JAN | 9784192621311 |
- 書籍
- 書籍
史記(Ⅰ)
商品が入荷した店舗:0店
店頭で購入可能な商品の入荷情報となります
ご来店の際には売り切れの場合もございます
お客様宅への発送や電話でのお取り置き・お取り寄せは行っておりません
史記(Ⅰ)
¥990
在庫なし
商品レビュー
4
1件のお客様レビュー
説明不要の名著、「史記」徳間版の第一巻。 このシリーズでは、史記を分解・再編集し、それぞれにテーマを設けた全六巻から成り立っている。 第一巻は覇者の条件。 主に取り上げるのは、春秋時代。 370年にも及ぶ動乱の時代、中原に覇を唱えた男たちの盛衰を描いている。 古代中国の王朝「...
説明不要の名著、「史記」徳間版の第一巻。 このシリーズでは、史記を分解・再編集し、それぞれにテーマを設けた全六巻から成り立っている。 第一巻は覇者の条件。 主に取り上げるのは、春秋時代。 370年にも及ぶ動乱の時代、中原に覇を唱えた男たちの盛衰を描いている。 古代中国の王朝「周」に乱れが生じるところから、この歴史物語ははじまる。 周王朝第十代の王、厲王は暴政をしき、贅沢にふけり、挙げ句の果てには言論統制まで行うという、典型的な暴君。 「どうじゃ、わしがおさえつけたら、だれも文句をつけぬわ」こう言い放つ厲王。 これに対して家臣が諌める。 「それはただ口をふさいだにすぎません。が民衆の口をふさぎとめるのは、水をせきとめる以上に危険です。水が堰を切れば、かならず多数の死傷者を出すもの。民衆の場合も変わりありません。水を治める者は水路をひらいて水を流し、民衆を治める者は民衆の口をひらいて発言させるのです」 この厲王、その後民衆の蜂起にあい、都を落ちることになる。 話はここで終わらない。 この諌めた家臣は、「あれほど諌めたにも関わらず、このような結果になった。一旦仕えたからには私情を捨てて身を捧げるのが臣下たる者のつとめ」と言って、自分の息子を身代わりに立てて王の息子を救った。 その後、しばらく政務は大臣が担当し、王は不在となった。 この政体が「共和」と呼ばれた。 今に続く共和政治とは、史記にまでさかのぼることができるから驚きだ。 また厲王の孫、幽王の妃「褒姒」の逸話も凄い。 いにしえの昔、王宮に棲みついた二匹の竜が残して行った、呪いがかった泡。 これを箱に納めて、長年保管していたが、例の厲王がこれを開けてしまう。泡は庭中に溢れ出し、始末につかない。 そのうち泡はトカゲに姿を替え、少女に乗り移る。 少女は生娘のまま懐妊するが、気味が悪いので、産まれた赤ん坊は棄てられた。 ところが、どこぞの行商人がこの赤ん坊を拾い、育てる。 赤ん坊は成長するごとに美しさを増し、ついには周の後宮に入る。 これを見初めたのが、厲王の孫である幽王。 心ある近臣は、次のように嘆息した。 「もはや手の打ちようはない。禍は定まってしまったのだ」と。 そして、本刊のメインのひとり、重耳も凄い。 晋の太子に生まれながらも、四十三歳まで跡継ぎの話すらしてもらえない。しかも継母の陰謀にあい、辺境へ飛ばされて王になる芽は摘まれてしまう。 その後継母に殺されそうになり、逃亡生活に。 これが十九年にもわたるというから凄い。 この重耳、相当気が長い人間にできているらしく、危険が迫って十二年間連れ添った妻と別れなければならなくなった際、「二十五年間待っても戻ってこなかったら、ほかによい相手をみつけてくれ」と言い残す。ちなみに、このとき重耳は五十五歳。 「二十五年もたちましたら、もうわたしの墓に大木が生えていますでしょう。でも、わたしはお待ち申しております」 この夫にして、この妻ありといった、オチまでついている。 最後に、古代支那の戦争も凄い。 越王句践は、呉と戦った際、敵の度肝を抜く戦術をとる。 まず越の一隊が、呉の陣に近づいて大声を張り上げ、自分の首を刎ねる。 つづいて第二隊、第三隊もこれに習う。 敵が呆気にとられている、その虚を突いて越軍は一気に襲いかかる。 これにはさすがの呉も散々に打ち負かされ、大将まで矢傷を負ったらしい。 様々な人物に彩られた歴史書であるが、著者の司馬遷は「伯夷伝」の中で、歴史に向かった際の自らの心境を素直に吐露した記述がある。 「孔子のあまたある弟子の中で、好学の士として推されたのは顔回ひとりだった。顔回は常に無一文で糠さえ食べられず、結局若死にしてしまった。天は善人に善を報いるといいながら、これはいったいどういうことなのだ。 それにひきかえ、かの盗跖は、毎日罪なき人々を殺し、人肉を膾にして食うなど暴虐のかぎりをつくしたにもかかわらず、結局、天寿を全うしたではないか。 それを思うと、わたし(司馬遷)は深い絶望におそわれるのである。天道とは、はたして存在するのかと」 この司馬遷の歴史に対峙する姿勢が、ある種の普遍性となって現代まで読み継がれる理由となっているのではないかと思ったりもした。 本旨と関係がないが、支那では人肉食があたりまえのように行われていることに、あらためてビックリ!
Posted by