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長靴をはいた牡猫 岩波文庫
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 岩波書店 |
発売年月日 | 2009/10/01 |
JAN | 9784003244319 |
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長靴をはいた牡猫
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長靴をはいた牡猫
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初期ドイツ・ロマン派の詩人ティーク(1773-1853)による戯曲、1797年。 この作品の特徴は、全体がロマン主義的アイロニーの機制をとっているという点である。このアイロニーの機制は二重の意味で指摘できる。以下の説明のために、ティークによる本作品を『長靴をはいた牡猫A』とし、...
初期ドイツ・ロマン派の詩人ティーク(1773-1853)による戯曲、1797年。 この作品の特徴は、全体がロマン主義的アイロニーの機制をとっているという点である。このアイロニーの機制は二重の意味で指摘できる。以下の説明のために、ティークによる本作品を『長靴をはいた牡猫A』とし、劇中劇のほうを『長靴をはいた猫B』として、名前を区別しておくことにする。 第一の意味は、『牡猫B』とその劇中人物・作者・観客・批評との関係におけるアイロニーである。通常、作者・観客・批評は、当該作品自体に対して外部=超越的位置=meta-levelにある。云わば、作品とその作者・観客・批評は階層構造を成している。なぜなら、作者・観客・批評はいずれも作品を対象=object-levelに位置づけているのだから。ところが、以下に示すように、『牡猫B』の劇中人物・作者・観客の振舞がこの階層構造を攪乱させてしまっている。例えば、観客が芝居中にするお喋りや批評が劇中人物の科白の間に割込んできたり、劇中人物が芝居の科白としていま自分たちが演じている当の芝居そのものについて言及したり、また観客に眼差されていることを意識した科白を発したり、作者が芝居中に舞台に上がって観客に弁明したり、作者と裏方とのやりとりが観客に曝されたり。そして肝心なのは、これら"外部"の声が劇中人物による"内部"の科白と同列に配置されているという点であり、階層の異なる科白が全て同一平面上に並置されることで、階層間区別が無効化される。「いったい、これも芝居の一部なんだろうか」と或る観客が漏らしているが、どこまでが作品の"内部"でありどこからが作品の"外部"となるのか、その境界を内外双方が侵犯し合って、ついに境界という概念自体を無効にしてしまう。こうしたメタフィクショナルな仕掛けは、ロマン主義的アイロニーの典型的な表現と云える。 第二の意味は、『牡猫A』とその読者である我々との関係(超越)が、『牡猫B』とその観客との関係として予め作品中に描かれている(内在)、というアイロニーである。作品を対象化してmeta-levelにおいて為されることが、予めこの作品の内容にobject-levelとして書き込まれている。【『牡猫B』:観客=『牡猫A』:我々読者】。そしてさらに、『牡猫A』と我々読者との関係を対象化する場合に生じる、新たな階層としての対象化客体と対象化主体との関係もまた、【『牡猫B』:観客=『牡猫A』:我々読者】の関係式のうちに捉えることができる。「Xの超越という機制それ自体が、予めXに内在している」という事態は、固定的な階層構造としては記述不可能な自己関係的機制の典型であると云える。 □ 解説によると、フリードリッヒ・シュレーゲルは、ロマン主義的アイロニーを、「ローマン的詩人がすべてを展望し、自己をすべての制約されたものの上に無限に高め、同時にまた自己の芸術・道徳、あるいは独創性の上にさえも高めるところの自由」である、と定義している。さらにドイツの作家リカルダ・フーフは、シュレーゲルの定義を敷衍して次のように説明する。「シュレーゲルが芸術家の持つべき能力として要求する、対象の不断の破壊ならびに再建ということは、芸術家がみずからに選びあたえそのうちに沈潜するところの素材からいつでも浮かびあがることができ、任意にそれを変形してどんな形にもなしうるという、そういう自在な支配力にほかならぬのであるから、一種の精神的飛行能力である」。 ロマン主義的アイロニーとは、あらゆる概念的規定「何者である」から超越可能な不定態として、つまり「何者でも在り得ない」という否定態として、自らを反語的に規定しようとする美的態度のことではないか。それは則ち、俗物による眼差し・駄弁・名付け・意味付与という欺瞞的で暴力的な否定=限定作用を峻拒して、誰にとっての何者として在ろうともしない態度。他者からのあらゆる批評の可能性を予め織り込んでおくことで、自らを他者に対して常にmeta-levelに位置づけようとする態度。何者からも断片化されずに絶対の自由と美的全体性とを不可能にも実現しようとする態度。 ロゴスによる断片化によって、世界はその意味を喪失し、自己も自らが根差すべき土壌を喪失する。このとき、たとえ否定的な形式ではあれ、たとえ土壌回帰が不可能であれ、せめて自己の純粋性を確保しようとする美意識の構えが、ロマン主義的アイロニーという精神的な運動として現れたのではないか。
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