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歎異抄の謎 親鸞をめぐって・「私訳歎異抄」・原文・対談・関連書一覧 祥伝社新書
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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 祥伝社 |
発売年月日 | 2009/12/25 |
JAN | 9784396111885 |
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歎異抄の謎
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3.6
10件のお客様レビュー
内容についても著者についても謎が多いとされる「歎異抄」。ビジネスマンでも読んでいる方は多く、先の大戦では死地へ赴く兵士が唯一持っていきたいと言って携えたのが歎異抄だったというエピソードも有名だ。あらゆる人が触れてきた歎異抄ではあるが、大作家の五木寛之氏がその歎異抄の魅力について迫...
内容についても著者についても謎が多いとされる「歎異抄」。ビジネスマンでも読んでいる方は多く、先の大戦では死地へ赴く兵士が唯一持っていきたいと言って携えたのが歎異抄だったというエピソードも有名だ。あらゆる人が触れてきた歎異抄ではあるが、大作家の五木寛之氏がその歎異抄の魅力について迫る内容となっている。単に原文を読もうとするなら、長くはないが言葉も古くとっつきにくいのではあるが、原文・訳文両方を掲載しており、尚且つ、先に訳文を読んだ後に原文を読めるので二重に頭に残る様になっている。 歎異抄は親鸞の言葉を死後に書き残した内容だと言われている。親鸞に師事していた唯円が親鸞の残した教えが後世様々な形で間違って伝わっていく現状を憂い、自身がその耳で聞いた言葉として記載している。また、それから更に時代を下り、蓮如上人が内容を門外不出の発禁扱いにしており、その際にも内容の一部を書き加えたり削除したのではないかと言われている。親鸞にしても浄土宗を興し、蓮如も浄土真宗の高僧であるから、多くの仏教徒に支えられ支持されてきた内容である事には間違いない。 歎異抄それ自体は前述のとおり、短い内容であり、六章十八条の文から成り立っている。ここでは内容には触れないが、どれを読んでみても、自分という存在、人間という存在の悪について淡々と書かれている。そしてそこには金持ちも貧乏も正義の味方も人殺しも皆全て仏に救われる対象としての平等性が描かれている。結局のところ人は食わなければ生きられないから、動物だけでなく植物などの命を身勝手に奪う存在である。そうした生きるという理由や背景の中で、あらゆる出来事が起こっており、悪人が人を殺すのも同様に理由があるから、結果として受け入れられるものではなくとも、そこには必ず理由があるという。その下において人間が自身の力だけで極楽へ行くのではなく、仏の他力によって救われる。だから念じるという考え方であろうか。 自分の内側には人間の醜い部分がたくさんあって、そればかりを考えていると鬱々とした気分になってしまう。だがこんな時に、改めて自分=人間のというそもそもちっぽけで悪の存在であると認めることができると、また今をどの様に生きるべきか考え始めることができる様になる。私も歎異抄を理解できた人間ではない。ただ短い文章を繰り返し読むうちに、なんとなく自分という存在を見つめ直したくなってくる、そんな言葉を本書はわかりやすく解説してくれる。
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「善人ですら救われるのだ。まして悪人が救われぬわけはない。」らへんが確かにイエス・キリストと同じようなかんじだ。 親鸞もイエスみたいに罪人たちについて考えていたのかな。 でも、「いくらなんでも念仏頼みすぎじゃ…」とちょっと思ってしまった。
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悪人正機と言って、悪人でもひたすらに念仏を唱えれば必ず極楽浄土へゆけるという、一般には受け入れられない事を書いているのですが、なるほど人間は殺生しなければ生きてはいけないのであって、その点からすれば誰しもが悪人になります。キリスト教の原罪と似たような出発点で、なかなかに興味深いで...
悪人正機と言って、悪人でもひたすらに念仏を唱えれば必ず極楽浄土へゆけるという、一般には受け入れられない事を書いているのですが、なるほど人間は殺生しなければ生きてはいけないのであって、その点からすれば誰しもが悪人になります。キリスト教の原罪と似たような出発点で、なかなかに興味深いです。 阿弥陀仏は誰でも救うのだから簡素な教義で良い、すなわち『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで往生できるとしたのは画期的だと言えますし、大いに共感できますが、すべてを阿弥陀仏に委ねるという『他力』には若干の違和感というか、それじゃあ阿弥陀様の操り人形じゃん!って思ってしまいます。 他力、というキーワードが出ましたが、これって西田幾多郎のいう純粋経験と通じるものがあるように思います。どちらも自分から離れた「神懸かり的な」もので、西田は阿弥陀仏の教えを基に純粋経験を考えたのか、それとも全くそれを知らないままに純粋経験の論理に至ったのか……。 僕の評価はA-にします。
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