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多民族国家プロイセンの夢 「青の国際派」とヨーロッパ秩序
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 名古屋大学出版会 |
発売年月日 | 2009/07/10 |
JAN | 9784815806170 |
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多民族国家プロイセンの夢
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ボグダン・フォン・フッテン=チャプスキというポーランド人にしてドイツ帝国の貴族であった人物の活動に焦点をあてて、従来のプロイセン研究に新たな問題を提起しようとする研究。近年のプロイセン再評価の機運に一定の好意的評価を加えつつも、ドイツ民族至上主義の思想とは異なり、近代以降少数派な...
ボグダン・フォン・フッテン=チャプスキというポーランド人にしてドイツ帝国の貴族であった人物の活動に焦点をあてて、従来のプロイセン研究に新たな問題を提起しようとする研究。近年のプロイセン再評価の機運に一定の好意的評価を加えつつも、ドイツ民族至上主義の思想とは異なり、近代以降少数派ながら数多くの(ドイツ人から見れば)異分子を抱え込んできたプロイセン、あるいはドイツ帝国において、過度なドイツ・ナショナリズムからも過度なポーランド・ナショナリズムからも距離を取り、ホーエンツォレルン家への忠誠心によって統合される「多民族王朝国家」プロイセンの可能性を、ドイツ帝国期から第一次大戦にかけて模索し続けた一貴族の生涯が丹念に描き出されている。最後に著者は、近代ドイツにおいて「非国民」として敵視された勢力として、社会主義者(赤の国際派)とユダヤ人(金の国際派)のほかにも、貴族(青の国際派)というのが存在したのではないか、そしてその経緯の解明がドイツ・ナショナリズム研究にとって有益なのではないかと提言している。近代のナショナリズムに対抗する勢力としての貴族、それも「ユンカー」という枠には収まらない国をまたいで活動する勢力としての貴族に焦点をあてた本書は、19世紀から20世紀初頭の時期のナショナリズムだけでなく、その他の時期のヨーロッパ・ナショナリズム研究についても有益な視角を与えてくれるのではないかと思われる。
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中世以来、ヤギェウォ朝をその最盛期としてリトアニア大公国との間に共和国(commonwealth)を形成し、キリスト教圏東方の大国として覇を唱えたポーランド王国も、選挙王制による大貴族達の党派間対立の中で政治的な力を失い、1772年から1795年まで計3回のポーランド分割をもっ...
中世以来、ヤギェウォ朝をその最盛期としてリトアニア大公国との間に共和国(commonwealth)を形成し、キリスト教圏東方の大国として覇を唱えたポーランド王国も、選挙王制による大貴族達の党派間対立の中で政治的な力を失い、1772年から1795年まで計3回のポーランド分割をもって地図からその姿を消した。だが近代ナショナリズムが激しく興る中にあって、3国に跨って居住するポーランド人達もその波に乗り、とりわけ経済的に自立性を増した商工業者らの間で、民族意識が激しく芽生えていく。 しかしながら、全てのポーランド人がこうした民族運動に参加したわけではない。筆者はその中の一人、プロイセン王国ポーゼン州の大貴族フッテン=チャプスキ伯爵(1851年~1937年)に注目する。相続した大所領によって「プロイセン第三の大富豪」とすら称された彼は、多くのポーランド系貴族の子息と同様に、青年期をパリ、ローマ、ヴィーン、ベルリンといったヨーロッパの大都会で過ごし、大学時代にはハプスブルク家・ホーエンツォレルン家の両家を筆頭に多くの貴族と交遊を持つ。それは温泉保養地として名高いバーデン=バーデンに通うために、わざわざ近隣のハイデルベルグ大学に学籍を置くことほどであった。そして、大学を卒業したフッテン=チャプスキはヴィルヘルム1世の勧めもあり、プロイセン軍の近衛兵隊に中尉として仕官する。だが実際には軍人としての地位は飾り物程度であり、もっぱらその高い外国語能力と青年期を通じて培われた社交力を活かして、交渉事や国外調査などの裏方任務を多く任されていた。こうしてドイツ帝国の宮廷内に確固たる地位を築いた彼は、ホーエンローエ帝国宰相(在任1894年~1900年)の私設顧問として活動したほか、1895年にはプロイセン貴族院の世襲議員に任命され、以後収用法などの反ポーランド的な法案に関して政治的反対工作を行う。1900年にはポーゼン城代として現地に赴任している。第一次世界大戦に際しては、ヴィルヘルム2世直々に独立ポーランド再建の確約を受け、事情通として新たに設置されたワルシャワ総督府の運営、そして親プロイセン的ポーランド国家の成立に向け尽力した。 またポーランド貴族でありながら、フッテン=チャプスキは急進的なポーランド・ナショナリズムを戒めている。彼の政治的理想はプロイセン王のもとでのドイツ人・ポーランド人の統合という「プロイセン・ナショナリズム」の実現であり、ドイツ側の反ポーランド感情と同様に、ポーランド側の過度な反ドイツ感情もまた有害だと考えた。こうした考えの裏には、「国民国家」が国際関係の中で受け入れられるための必要条件であった時代にあって、現実に対応して何とか生き延びることを余儀なくされた国無き民族の苦悩であったのだろうか。 だが、彼の理想の一部を確か体現していたひとつの王冠の元での統一帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の政策がセルビア人一青年の暴弾を生み、そしてそれがきっかけで起きた第一次籍値戦によって彼が忠誠を誓っていたプロイセン王国が崩壊してしまったのは歴史の皮肉としか言いようがない。その来歴からいっても貴族であり、国際色豊かな世界に生きた彼が、民衆によるある意味で単純な民族感情を理解できなかったのは当然であり、そこに悲劇があると言えよう。
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