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死なないでいる理由 角川文庫
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商品詳細
| 内容紹介 | |
|---|---|
| 販売会社/発売会社 | 角川学芸出版/角川グループパブリッシング |
| 発売年月日 | 2008/12/24 |
| JAN | 9784044075026 |
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死なないでいる理由
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商品レビュー
3.9
26件のお客様レビュー
個人の独立と依存、どちらを欠いてもわたしたちは生きてゆけない。 依存感情は異常だ、誰にも抱きたくないと思っていると同時に、誰かに依存することで楽になりたいと思う私にとって、どこか安心する言葉だなと、 私のプライドなんて取るに足りず、ないほうがいいと思っていたんだけど、本文の最後...
個人の独立と依存、どちらを欠いてもわたしたちは生きてゆけない。 依存感情は異常だ、誰にも抱きたくないと思っていると同時に、誰かに依存することで楽になりたいと思う私にとって、どこか安心する言葉だなと、 私のプライドなんて取るに足りず、ないほうがいいと思っていたんだけど、本文の最後で「プライドというのは、〜他者から贈られるものだと、わたしはおもう」と描かれていて驚いた、過去に他者から大切にされた経験をもって、粗末にしてはいけないという感情を抱くことになるそうだ、わたしが必死に排除しようとしていたものは何だったんだろうね、自身に価値を見出すことなんて無価値で、自身のことを何もないと思っていたほうが楽だからとこの思想に行き着いたと理解しているけど、他者からの愛情を必死に排除しようとしていたのであればとても悲しいことだな、と、
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死について考える哲学エッセイ。 死について考えても、客観的な答えは出ないので、自ら言い聞かせるような観念や言葉の選択という類の話であるという気がしている。つまり、その事を空想や伝承に頼るか、宗教に頼るかという違いはあるが、自分自身で信じ込めるような答えを見つけるしかないのだ。本...
死について考える哲学エッセイ。 死について考えても、客観的な答えは出ないので、自ら言い聞かせるような観念や言葉の選択という類の話であるという気がしている。つまり、その事を空想や伝承に頼るか、宗教に頼るかという違いはあるが、自分自身で信じ込めるような答えを見つけるしかないのだ。本書が、その答え探しのヒントを幾つか提供してくれる。 なぜ、他人を殺してはいけないか。なぜ、今まで、殺してこなかったのか。本書の問いの一つとして掲げられる。だが間違っている。人は、他人を殺してきたのだから。本書もこの問いには答えられないというが、同感だ。あらゆる生きものは他の生きものを殺さずには生きていけない以上、殺すことを否定することは、生、すなわちみずからの存在を否定することにつながるのだから、と。他人を殺さずには生きていけるかもしれないが、結局、他の生命を捕食して生きているのだ。それが生きるという事の必然である以上、自らの生にも、そのような覚悟をもつことは必然なのかもしれない。 つまり、我々は「循環」の一部である。 「労働」そのものがすでに緩慢な死であるという思索も本書で述べられる。これは、パスカルによる「死への気晴らし」の換言という気もする。始終、死と向き合って生きることには耐えられない。だから気晴らしに「労働」をするのだが、その行為は、既に緩慢な死のレールに乗り出しているようなものだ。だが、そう思うなら、気晴らしが出来ていないとも言える。しかしそれが正常であり、私たちは、完全な気晴らしなどできず、時々、死を思い出す。時々、死を思い出しては、落ち着かせるための言葉や観念を当てはめるか、また気を逸らして生きていくのだろう。 最近、知人が亡くなった。この人とは、深い付き合いではなかったが私とは信頼関係のある人で、少なくとも私は好意を感じていた。後日、その人が属していた会社を別件で訪れたが、その人がいなくなったことを忘れて、日常が過ぎている。そこには笑いもあったし、その人以降の世界も変わらずに続いていく。そうやって、一人、また一人と抜けていっては入れ替わり、集団の生活は続いていく。死とは何か。自分一人の人生で捉えても、ただの虚無感に苛まれるだけかもしれない。
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[「生まれる」ということ] 自画像はなんでだいたい真顔なんだろうと薄っすら疑問に思っていたけど“わたしの表情は他者によって分節される”という一文に納得した。 表情は他者の鏡として存在して、あなたを含むふたり以上の単位になって初めてわたしという意識も生まれることになる。 「...
[「生まれる」ということ] 自画像はなんでだいたい真顔なんだろうと薄っすら疑問に思っていたけど“わたしの表情は他者によって分節される”という一文に納得した。 表情は他者の鏡として存在して、あなたを含むふたり以上の単位になって初めてわたしという意識も生まれることになる。 「全ての悩みは対人関係である(アドラー)」も、対人関係においてしか意識が発生しないとすれば、悩むことが人間の特性だとも言えるかもしれない。 でも、このテーゼには胸が痛くなった。 それは、わたしという存在がいつまでも他者に振り回され続け、絶えず形を変えさせられることへの不安が原因している。 脆くて、儚くて、吹いたら消えてしまいそうな存在としての“わたし”が強く認識されるからだ。多分だけど、人はふたりぼっちにも耐えられない。ひとりとひとりでは、この薄っぺらな個人を、地に足つかせて、存在として規定できないからだ。 だから群れる。同調する。かぶれたり、何かしらに染まって、言動する。 個性云々の前に、そうやって同調し、群れる人間の醜さをわたしたちは、いやという程目にしてきている。 その結果、個性は幻想だとしても、自分を様々な情報でコラージュして、創作するようになった。これは、個人的な感想で根拠も私自身のわたし感になってしまう。 けれど、その段階では、他者をわたしの拠り所にしていると、いつも思わぬ形で危機を迎えることも知っている。 “〈わたし〉というものは、どのような他者のどのような他者でありえているかということになる” 他者によって限定されたわたしという存在もまた、他の他者を限定するけど、この他者と他者に挟まれたわたしというのが、なんでこんなにも苦しいのかの説明がこれではつかない。 だから、著者の定義する他者として、他者もわたしも機能していない。という仮説を立てて以降を読んでみたい。わたしが安心してわたしでいられるような心的安全性を与え、受け取るその、根本的な何かが損なわれてしまってはいないか?その何かとは何なのか?かつて、他者とわたしとして確立していた関係はあったのか? もしかすると、わたしは生まれていないという可能性も視野に入れられるのかもしれない。(2023/12/13)
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