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中国五千年 女性装飾史
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中国五千年 女性装飾史

高春明(著者), 栗城延江(著者)

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中国五千年 女性装飾史

定価 ¥37,379

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 京都書院
発売年月日 1993/03/01
JAN 9784763632128

中国五千年 女性装飾史

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2021/09/16
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カラー写真と説明で面白い。 こういうのが図書館で借りられるのはありがたい。 以下メモ。 ⭐︎髪型篇 軽々しく散髪しない。基本、額は出る。髪が短い子供の頃は、Y頭(あとう)という、上二つ結び。前髪を切らない分?鬢(びん)の形にも凝っていた。 ⭐︎髪飾篇 簪 一本を簪(かんざし)、二本(二股)のものを釵(しゃ、さい)と呼ぶ。 花を髪に差すと言えば、中国では有名な中唐画家の周昉の簪花仕女図(しんかしじょず、さんかしじょず)がある。この絵には庭を散歩する6人の女性が描かれ、全員が花を挿している(釵を使用)。 生花を使う風習は、漢代には既に始まっていた。 造花も盛んだった。周密の『武林旧事』によると、宋の時代、春夏秋冬の式を代表する桃、蓮、菊、梅などの花をすべて配した「一年景」の花冠もあった。 金属を用いて作る飾り物も流行った。 ⭐︎冠飾篇 帽子は防寒用、冠は装飾用、頭巾は庶民の被り物。 ⭐︎化粧篇 眉毛の描き方あれこれ。 額を黄色く塗るのは南北朝以降、金を塗った仏像に感化されて。 花鈿(かでん)は宋の武帝の娘の額に梅がついてとれて色が落ちなかったから。 ⭐︎耳飾篇 『留青日札』の記載によると、耳に穴を開けるのは、本来的な意味は装飾のためではなく、戒めの役割を帯びるものであった。それは本来、少数民族の風習の1つであり、活発で外出したがる女子の耳に穴を開けて耳飾りをつけることで、彼女たちの生活態度を正し、行動を慎むように悟らせるためのものであった。 この方法は、やがて漢族の人々にも受け入れられた。『釈名』には「蛮族では女性の耳に穴をあけ玉を施すことは罪びとを縛る鉄の鎖、鈴をつけるのと似た意味合いであった。現在の中国人はこれを真似たにすぎない」と説明している。 女児は一般に10歳前後になると、母親年配者によってこの粒で耳たぶを何度も擦られ痺れてきたところで針の先を突き刺され、さらにそこに草や紐を通して、小さな穴を開けられたのであった。その動作をしながら、年配者は女子に対して説教したり、規律を守る女性になるようにと教えるのであった。 唐代には耳に穴を開ける習俗が廃止された。おそらく思想解放と思われている。 宋明の時代には逆に礼法道徳思想の台等によって、穴を開けるのが流行った。普通の女性だけでなく皇后も、豪華な耳飾をしたのである。 ⭐︎首飾篇 児童だけ長命鎖(生命に錠をかける)をつけられたりした。漢代から。『風俗通』等の記載によると、毎年5/5に5色の糸縄を吊るした。玉でつくった鎖片の連珠飾もある。 ⭐︎手飾篇 爪カバーやネイルは昔からあった。 指輪が戒指(かいし)と呼ばれた訳… 金の指輪は妊娠中、生理中。 夜伽できる者は左に銀の指輪を、終わったら右指に。 後漢時代にはすでに民間において指輪を愛情の印として用いてきた。 ⭐︎服飾篇 衣服は上下に分かれた上半身「衣」、下半身「裳」と称した。春秋戦国時代になると上下が一体になったものがあらわれ「深衣(しんい)」と称した。 清朝になり満州族の旗袍(チーパオ)を着るよう漢民族に制度強要した。 肩掛け飾り 礼服は洗濯しにくく襟が汚れるが、雲肩を礼服の上にかければ洗濯も簡単で美観も増す。 ⭐︎帯飾篇 ベルトは、皮革で作ったハンタイと、絹を織った大帯の主に2種。バックル風の留め金が使われる。  腰下げ飾り。 一本の腰帯の上に多くの飾り物をぶら下げた。実用品は事佩、装飾品は玉佩(ぎょくはい、ごくはい)と呼ばれた。 澄んだ音色の佩玉を楽しんだり、小刀をつけたり、香料を焙り虫避けにする香毱(こうきゅう)など、さまざまなものが下げられた。 ⭐︎足飾篇 纏足は南宋から。満州族は漢民族の纏足を罪なものとみなし、1645年と1662年に纏足厳禁の規定を設けたが、後に厳しすぎると禁止令が解かれ、1851年の太平天国の乱まで風習は続いた。 (美しさのためだけでなく、地方では手工業から逃げられなくさせるために、長く続いたりもしたのであろう) 渋谷区図書館 20210916

Posted by ブクログ

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