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中・高校生のための狂言入門 平凡社ライブラリー530

山本東次郎(著者), 近藤ようこ(著者)

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 平凡社
発売年月日 2005/02/09
JAN 9784582765304

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商品レビュー

4

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2020/09/20

印象的だったのは、『靭猿』の面の裏面の話。普通の面は、汗や脂を防ぐための黒い漆塗りだけど、子役は漆に弱かろうと墨塗りになっているそうな。色々な演目が紹介されている。更にアイこと間狂言の解説も丁寧。能なんだか狂言なんだか、位置づけが今一つわかっていなかったんだけど、これでかなりスッ...

印象的だったのは、『靭猿』の面の裏面の話。普通の面は、汗や脂を防ぐための黒い漆塗りだけど、子役は漆に弱かろうと墨塗りになっているそうな。色々な演目が紹介されている。更にアイこと間狂言の解説も丁寧。能なんだか狂言なんだか、位置づけが今一つわかっていなかったんだけど、これでかなりスッキリした。

Posted by ブクログ

2017/05/21

「そこにないものをあるように演技する」って、いやそんなことできるわけないじゃん、日本の悪しき伝統、つまり「なんか偉い人が”演技できてる”って言うから、下々のものが”そうですね”と話を合わせるってのが続いているだけなんじゃないのか、そういや古武術とかもそうだよね、単なる独自の精神論...

「そこにないものをあるように演技する」って、いやそんなことできるわけないじゃん、日本の悪しき伝統、つまり「なんか偉い人が”演技できてる”って言うから、下々のものが”そうですね”と話を合わせるってのが続いているだけなんじゃないのか、そういや古武術とかもそうだよね、単なる独自の精神論を唱えているだけで、実際に戦ったら絶対負けるものがほとんどであるような、なんてちょっと辛辣な感想を抱いてしまったのだけど、まあ確かに落語を聞くと、あたかもその場面を自分が見ているかのように入り込むことはあるし、そういうことが狂言でも起こるってこともありうるのかなあ、とも一方では思う。 あとときおりインタビュアーとインタビュイーの会話がかみ合っていないところがある。 たぶん結構たくさんの部分でかみ合わず、編集が苦労したんだろうなあと邪推。

Posted by ブクログ

2016/05/25

狂言というと、古典芸能の中でも比較的わかりやすく、滑稽で親しみやすい印象がある。 能・狂言と並び称されるように、能と組み合わせて演じられることも多く、重厚な能の間の「息抜き」のようなイメージもある。 「軽い」「おもしろおかしい」「添え物の」「笑劇」。 だが、本当にそうした理解でよ...

狂言というと、古典芸能の中でも比較的わかりやすく、滑稽で親しみやすい印象がある。 能・狂言と並び称されるように、能と組み合わせて演じられることも多く、重厚な能の間の「息抜き」のようなイメージもある。 「軽い」「おもしろおかしい」「添え物の」「笑劇」。 だが、本当にそうした理解でよいのだろうか。 本書は、中世を舞台とした作品を多く描き、古典芸能にも造詣が深い漫画家・近藤ようこが聞き手となって、大蔵流狂言方の四世・山本東次郎に、狂言の歴史や背景、込められた意味を聞く、対談形式の入門書である。 中高生向きとされているように、語り口は平易だが、非常に奥深い世界が感じられる。 能も狂言も、おそらくは、民衆の中に自然に興ってきた猿楽を起源とする。 足利時代に大和四座(結崎(観世)座、外山(宝生)座、円満井(金春)座、坂戸(金剛)座)が公的に認められた座組となり、能は高貴な人々にも鑑賞される芸能として発展していく。この際、ある意味、「都会的」な芸能へと能が洗練されていく一方で、リアルでコミカルな味付けも必要とされたのだろう。狂言役者は、こうした役割に適任だった。だが能が主体の公演では端役に過ぎないため、狂言方は満足が得られない。そうした経緯で、能の合間に狂言を挟み、抱き合わせで演じられるようになっていったようである。少々異質で、互いの領分を脅かさない2つの芸能にとって、それが収まりのよい形だったということになる。 身体の使い方、面の話、舞台の距離感、シンプルな台詞の奥にある意味、能における狂言方の役割、昔と今の照明の相違など、さまざま興味深い話があるが、最も印象的だったのはフィクション=虚構のお話に対する狂言の姿勢である。 古来、仏教ではきらきらしく飾った言説を戒めていたという。これに対し、白楽天は、フィクションによって人のあるべき姿を描き、我が身を顧みる手立てとするならば、創作も悪いことではないとした。この際、「狂言綺語」という言葉を使う。 狂言はこの精神に則ったものであるという。 やたらと暴力的であったり、センセーショナルであったり、感情に訴えすぎるような題材は狂言では扱わない。現代ならば「ツッコミがあまい」といわれるような話も多いが、元来、目するところは「中庸」なのだ。 妻が夫に裏切られても、妻は鬼と化して祟ったりしない。 主人にねちねち叱られても、太郎冠者が激怒して主人を惨殺したりしない。 生きていくのがつらくて「死にたい」と思っても、主役が本当に自殺したりはしない。 血しぶきが飛び散る凄惨な場面や、おどろおどろしい怨念は存在しないのだ。 過激なフィクションで手に汗を握るとき、人は実は「野次馬」になる。殺されてしまったり、自殺してしまったり、絶対的な破滅に陥る創作を鑑賞する際、観客は、それを自分の身に起こることと考えるより、第三者的な目から、ある意味、「楽しんで」いるわけである。 仏教が戒めたフィクションはおそらくこうした形のものなのではないかと東次郎は語る。 世の中、善人や賢人ばかりではない。人間などしょうもないものだ。 狂言はそれを描く。 しかしそれを「事件」にはしない。ぎりぎりのところで正気に戻る「ヤジロベエ」の感覚がそこにはある。 観客をいたずらにはらはらさせず、驚かせない。身分の高い低いに関わらず、人間て困ったものですね、でもまぁそんなもんですよね、ははは、と共に笑う。笑うことで少し心が軽くなる。そして出来うることならば、少しずつよい「自分」を目指していきましょうかね、という影の意味もそっと忍ばせる。 大抵の人は腹が立ってもいきなり「事件」にはしない。何とか和やかに丸く収めて明日もやっていく。そんな「当たり前」は、ときにつまらなく見えても、実は尊い。 人の日常を言祝ぐのが狂言なのかもしれない。 いささか別格なのが、能の「翁」の一部として演じられる「三番三」(一般には三番叟と書くが、大蔵流では三番三の文字を当てる)である。これは儀式であり、型や秘伝が大切に継承されている。神に捧げる太古の人々の祈りが伝わるようで、非常に興味深い。 現在演じられる狂言の演目は二百番という。軽いものからいささか重厚なものまで多岐に渡る。 加えて、能の中で狂言方が登場する演目がやはり二百番ほど。 機会があれば多くの演目に触れていきたいと思う。

Posted by ブクログ

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