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ウンラート教授 あるいは、一暴君の末路
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商品詳細
| 内容紹介 | |
|---|---|
| 販売会社/発売会社 | 松籟社 |
| 発売年月日 | 2007/10/19 |
| JAN | 9784879842558 |
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ウンラート教授
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商品レビュー
4.7
3件のお客様レビュー
私は大学生のときに使っていた独和辞典を今も持っている。その裏表紙に書かれているDeutschlandの地図ではDresdenには色が塗られていない。ドイツといえば西ドイツを指していた東西分裂時代に発行された辞書だからだ。その三省堂コンサイス独和辞典でUnratの訳を調べてみる。く...
私は大学生のときに使っていた独和辞典を今も持っている。その裏表紙に書かれているDeutschlandの地図ではDresdenには色が塗られていない。ドイツといえば西ドイツを指していた東西分裂時代に発行された辞書だからだ。その三省堂コンサイス独和辞典でUnratの訳を調べてみる。くず、がらくた、廃物、(台所の)汚物、とある。 本書ではウンラートを日本語で汚物と表している箇所がある。でも日本人の多くは、汚物と聞けば排泄物や吐瀉物を想像してしまう。しかし辞書の訳からはウンラートとはむしろ英語のrubbishが近い意味だとわかる。それを踏まえてウンラートを日本語のニュアンスに近づけようとすれば、汚物よりも「ゴミ野郎」のほうが近いのだろう。 他方で、現代日本での日常的な用語で当てはめようとすれば、ウンラート教授は「肝井先生」みたいなものでは? 肝井が本名だけど、生徒や卒業生やさらに町に住む人たちから「キモイ」と叫ばれて、それが明らかに自分のことを言っていると感づいてはいるものの、証拠をつかめない、そのもどかしさと言うか鬱憤が中学校に長く勤めているうちに蓄積し、いよいよ噴出しようとする老境にさしかかった教師が主人公。こう考えるとわかりやすい。 ただ私にとって、読み始めた当初は主人公の内面にとてもではないが入り込めなかった。このウンラートという先生は、学識はあるのにそれらを生徒にわかりやすく伝えることができない。そして伝わらないのを生徒の理解力不足や素行の悪さのせいにする。また当時残っていた身分的な階級や家の資産では勝てない生徒に対しては、教室の中でだけ通用する自分の学識を盾に、落第や不合格をちらつかせて優位を保とうとする。その振る舞いが生徒の感情を逆なでし、何代にもわたって生徒から本名ではなく、それをもじった、より的確なウンラートという名前で呼ばれることとなった…とざっとこんな導入部だからだ。 だが外国文学が好きな人ならば、こういう日本の一般的な小説で見られない展開であっても、何かが隠されていると想像して読み進めることができるはずだ。 実は私はウンラートの暴君ぶりやその末路が、この本が出版された1905年ころのドイツの世相を投影したものと考えていた。つまり18世紀初頭にフィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」として、ナポレオンの蹂躙によって意気消沈していたドイツ人の勤勉性を信じて国民へ団結を鼓舞した結果、1世紀の間にドイツが国家として巨大化したがゆえに19世紀初頭に生じていたドイツの欺瞞、すなわち貧富の差の拡大や、経済や文化面では依然として欧州先進国に後れを取っているという実態などのドイツ現実社会の皮相をあぶり出したかったのではないかという見解だ。 しかし(正解はハインリヒ・マンにしかわからないが)、訳者の今井敦氏は、さらに一歩進んだ違う見解を提示する。今井氏は本書後段にある作品解説の中で、自身の既発表論文を加筆修正して掲載しているが、この作品の主題を、著者(ハインリヒ・マン)自身に潜む排他的孤高性を抽出し、暴君が没落する様を自分に向けていたと書く。「それゆえにこそこの小説は、帝国社会への批判や諷刺に留まらず、ファシズムとその没落を予見したばかりでもなく、むしろ、そうした悪の背後に隠れた人間的弱さを浮き彫りにし、人間憎悪の裏返しとしての破滅的愛を描いた、ユニークな作となりえたのである」(P299) この本が時間の経過に耐えて現在も一読に値する理由は、この訳者の言に集約されているのではないだろうか。私からそこに付け足す言葉はない。
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❖どうしても映画との違いに意識が向いてしまう。映画と原作(本作)が重なりを見せる前半部と明確に異なる後半部とでは感想も違ったものとなった。 前半部について・・ウンラート教授の人物像(暴君)のその屈折ぶりや奇矯にひきつけられた。性格は歪な幼児性をおびて異様かつ悪質。常に高圧的で猜...
❖どうしても映画との違いに意識が向いてしまう。映画と原作(本作)が重なりを見せる前半部と明確に異なる後半部とでは感想も違ったものとなった。 前半部について・・ウンラート教授の人物像(暴君)のその屈折ぶりや奇矯にひきつけられた。性格は歪な幼児性をおびて異様かつ悪質。常に高圧的で猜疑心を澱ませひとを呪っている。また復讐心ももの凄い。暗い情念を内にためて燃やし、そうして生きる気力を高めている。映画で描かれる教授はそこまでの酷い歪みはなかった。 そんな主人公に嫌悪感を抱きつつも、自分に似た心の動きをすることに意外感というか驚きを持った。というのも映画の主人公に対しては、最後まで客観視されて自分の似姿を教授を見ることはなかったからである。原作では教授の心理描写が追って細かくされるけれど、フレーリヒに向かうそのマゾヒズムをおびた思考(欲望)は自分にはしっくり理解できた。たとえばそれは谷崎潤一郎『痴人の愛』などにみる、主従関係に身を置く(落とす)ことの甘美さに近いものである。解説にも指摘されてあるが、二人の関係のありようから作家自身の姿を教授の中にみることは的確であると思うし、自分も読んでいて主人公の姿に作家は自分を重ねていると思った(著者がその作品の主人公の分身であることは程度の差こそあれあるものだけど・・・)。 後半部は映画との乖離が明確になる。教授の人物像の歪みは嵩じ、肥大して悪魔(怪物)的なものとなる。誰かれなしに相手を陥れる卑劣を行い、それを愉しむ陰湿さ。 終盤、かつての教授の教え子ローマン(教授の天敵?)が物語の中央に登場する。成長した彼の目に映る色の失せた故郷の街・・社会と人間への幻滅は興味深く共感もされた。いまわしい怪物(まさに汚物)になり果てた教授に対峙するものの、かつて抱いた憐憫からくる好意は彼からきえ、もう唾棄すべき存在でしかなくなる。自分も同様に変わり果てた教授のその不気味に興味は感じたが、やや人物の魅力は減じたように思う。 映画では教授の転落ぶりに、その人生の残酷にため息し、主人公の末路に同情と哀憐(哀感)が残された。ローマンが抱いたであろう教授への興味(視線)は、映画で描かれたところのこうした教授像であったように思われる。原作の方の主人公には自身の招いた酷薄な顛末にそうした感情はほとんど抱かない。 また映画ではフレーリヒの人物像はファム的魔性の魅力が強く(ディートリヒの強烈!)、圧倒的でもあったが、原作ではせいぜい小悪魔的な存在感しか感じられなかった。
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権威に取りつかれた中学(ギムナジウム)教授の破滅の物語。小さな街の教師、主人公ラートはその名にちなんで「ウンラート(ドイツ語で「汚いもの」の意)」とあだ名されている。自分をこの名で呼ぶ者への復讐に日々を費やしている。そして最も憎き生徒の一人、ローマンが女芸人と関係を持っていること...
権威に取りつかれた中学(ギムナジウム)教授の破滅の物語。小さな街の教師、主人公ラートはその名にちなんで「ウンラート(ドイツ語で「汚いもの」の意)」とあだ名されている。自分をこの名で呼ぶ者への復讐に日々を費やしている。そして最も憎き生徒の一人、ローマンが女芸人と関係を持っていることを知り、それを突き止めようとしたことから彼の人生は転回していく…。 教師という立場がもつ権威だけにすがりつき、偏執にとらわれたウンラートの姿が何とも滑稽ながらも空恐ろしい。そして彼が最強の復讐手段を手にいれ、街全体に破滅をもたらしてく様の凄まじさときたら。全体の流れも強烈だし、主要な登場人物の人物造形も豊かで非常に楽しめた。
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