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信長は本当に天才だったのか
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 草思社/ |
発売年月日 | 2007/08/31 |
JAN | 9784794216267 |
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信長は本当に天才だったのか
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商品レビュー
3.6
6件のお客様レビュー
信長の本は何冊か読んだ記憶がありますが、これは真っ向反対の書き方をしていますね。 成程と思うところもあり、真実は解りませんが、新たな目線に気付かされます。 信長は偉大で天才のインプットされましたが、考えさせられました。
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「小説」というジャンルでは、まず全てと言っていいほど「信長は天才」だったという視点で描かれているから、その正反対の主張をする本書は、興味深く読めた。 しかも、その依拠する資料が全て過去の歴史資料であるところが愉快である。 要は、詳細な資料が残っているわけではない歴史時代にお...
「小説」というジャンルでは、まず全てと言っていいほど「信長は天才」だったという視点で描かれているから、その正反対の主張をする本書は、興味深く読めた。 しかも、その依拠する資料が全て過去の歴史資料であるところが愉快である。 要は、詳細な資料が残っているわけではない歴史時代においては解釈次第では、正反対の主張も成り立つということか。 本書は、戦国時代の小説やドラマに詳しい人だったら、誰しもが興味深く読める良書ではあるが、ではそれが学問的に証明できるかというと、なんともあやふやである点が弱点ともいえると思えた。
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信長を礼賛した本を今まで多く読んできました、革新的な制度を導入して中世的な日本を近代化した功績が称えられていたと思います。また多くの合戦において革新的な戦法を生み出して輝かしい戦果をもたらしたと理解してきました、しかし晩年は多くの虐殺をしたり、多くの家臣に裏切られて最後は重臣だっ...
信長を礼賛した本を今まで多く読んできました、革新的な制度を導入して中世的な日本を近代化した功績が称えられていたと思います。また多くの合戦において革新的な戦法を生み出して輝かしい戦果をもたらしたと理解してきました、しかし晩年は多くの虐殺をしたり、多くの家臣に裏切られて最後は重臣だった明智光秀に暗殺されてしまいます。 果たしてそのような人が日本を統治していくことができるのか長い間不思議に思っていたところへ、この本と出合い多くの興味有る内容に触れることができました。この本を妄信することなく、類似本や本来の賞賛本とあわせて今後とも信長について理解していきたいと思います。 特に、安土城は守るに難しく、地震や台風で倒壊する可能性のあった城であったことは驚きでした。 以下は気になったポイントです。 ・桶狭間の戦いにおいて、信長は籠城すれば家臣が裏切る可能性が高いから出撃するしかなかった(p18) ・桶狭間の戦い、そして信長の運命を決めたのは「奇襲」ではなく、奇襲直前に降りはじめた強い雨である(p30) ・勝利を呼んだのは偶然の豪雨であり、信長の戦略で有効であったのは、丸根・鷲津砦勢に全滅覚悟の徹底抗戦を強いることで、戦場にできた空白域とその時間であった(p40) ・桶狭間から本能寺の変までの22年間のうち、3分の1は美濃攻めに費やしており、これでは戦略・戦術上の天才とは言えない(p46) ・美濃攻めで尾張兵が弱かったのは、信長軍の主体が傭兵隊であったから、新興の家柄なので累代の家臣が少ないし、同族で争ったので一門衆も少ない(p59) ・敦賀からの退陣において、殿軍を買って出た秀吉は1000人ほどの軍勢の半数を失った、農民兵が主体であれば壊滅したはず、主な武将の戦死者はなく、自らは危険に身を晒していないと思われる(p61) ・信長は、奈良の町には1000貫、法隆寺には銀150枚、本願寺には5000貫、堺には2万貫の矢銭(軍資金)を課した、これを石高で考慮すると数十万石分となった(p76) ・浅井・朝倉軍の攻勢は、本願寺や三次三人衆と呼応したもので、3万もの遠征軍を姉川の合戦以降に組織できているので、姉川の戦いは一方的な信長の勝ちとは言えない(p94) ・信長は譜代の臣が少ないので人材を登用した、信長も彼らに重い役割を課して能力がないと切り捨てたので忠誠心は育たない、支配地が拡大するにつれて家臣の心は離れて信長は孤立していった(p115) ・信長が長篠の戦において命じた鉄砲奉行は、前田犬千代らの直臣5人のみ、これで3000丁の鉄砲を扱えうことは無理(p135) ・武田家において、軍勢100名において、騎馬:12人、槍:58人、弓:10人、鉄砲:7人、旗持ち:6人、その他:7人であった、鉄砲装着率で考えると、信長隊(3万人で1500丁)よりも高く、鉄砲を軽視していたとは考えられない(p138) ・騎馬武者が全軍の先頭にたって突進すれば、たちまち敵の鉄砲、弓、槍の餌食になり、部隊は瞬時に指揮者を失うことになり、実際にはあり得ない(p139) ・戦国時代当時には、蹄鉄が発明されておらず、蹄の保護のために藁の靴をつけていた程度、小型の馬が総重量100キロにもなる重装備の武士をのせて疾走する姿は考えにくい(p142) ・長篠の戦の翌年に勝頼は2万の軍勢を組織して再び徳川領に侵攻しているので、壊滅的にやられたとは言えない(p152) ・信長が長篠の戦において優れていたのは、武田軍の強さと織田軍の弱さを知って、野戦でも陣城を築き、柵から出ないことを厳命して白兵戦としなかったこと(p153) ・当時は日本人の半分が一向宗であり、本願寺とその寺内町を含めた「石山城」には武家に対抗できる人と資金が集まった(p168) ・信長は天王寺砦に3000人の軍勢で切り込んだ、寡勢で大軍に切り込んだのは、桶狭間の戦いと、天王寺砦救出作戦の2つのみ(p173) ・本願寺が10年以上も信長の攻勢に耐えられたのは、鉄砲と石の力による、城砦の優位性は大砲の出現(大阪冬の陣:1614年)まで保たれた(p175) ・軍役を負担するものは、武具はもとより兵糧も自弁、農民が軍役に加わったのは、寄親と呼ばれる武将の強制と、戦争での略奪利益があったので(p195) ・本能寺の変が起きても、安土城の留守役(織田信益、蒲生賢秀ら)及び馬回り2000人は、誰一人として明智を迎え撃ったり、重臣との合流を図ろうとしなかった(p225) ・安土城は掘りも無く、基礎を掘られれば崩れる可能性もあり、守りにくい城であったのは当時の武将には共通の認識であった(p244)
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