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試験の社会史 近代日本の試験・教育・社会 平凡社ライブラリー602
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試験の社会史 近代日本の試験・教育・社会 平凡社ライブラリー602

天野郁夫【著】

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試験の社会史 近代日本の試験・教育・社会 平凡社ライブラリー602

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 平凡社/平凡社
発売年月日 2007/02/09
JAN 9784582766028

試験の社会史

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商品レビュー

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3件のお客様レビュー

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2020/04/03

世界で初めて試験システムを発達させたのは、プロイセン。 中央集権的国家には官僚制度が必要で、人材登用システムとしての大学。

Posted by ブクログ

2015/09/27
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※このレビューにはネタバレを含みます

□歴史 ・期限は6世紀末の中国の官僚任用試験制度。科挙にあたる。 しかし、それが様々な制度に使われ始めたのは、西洋が中国からその制度を学んでから。 医師や、弁護士などの専門的職業につく人の資格を認定するために使われるようになった。 学校でも試験が使われるようになり始め、誰を入学させるか、卒業証書を与えるかも試験で決定するようになった。 近代化を図る上で、書くことのできない手段として取り入れ、移し替えた。 しかし、この制度は社会問題に面している。 入学試験に占める割合は多く、問題がしゅうやくされている ようだ。 -- 近代化と試験 明治10年(1877年) モルレーが教育に試験の概念を取り入れた。 教育者の生徒に対する掌握。 →生徒の学問を奨励するために、賞与を与え、昇級を設ける。 モルレーはこの概念をどこから取り入れたか。 1850年が試験の時代の始まり。イギリスで、自由競争が謳歌していた時代。 競争の時代の中で、競争の制度かとして、試験が教育にも取り入れられた。 モルレーが日本をさる、明治11年の時点では、小学校から、大学まで根を下ろしていた。 -競争の制度化 「生徒の等級を分かち、競争せしめ、試験を持って上級学院に進む。」というのがモルレーの重視していたポイント。 もともとは、中国の科挙(上位のものに、任用の特権があたえられる)ので、1点でも高く点を取りたい。この競争制度をヨーロッパの人が知ったのは、16世紀末。 マッテオ・リッチ。 学問をするものの共同体があった。それにはメンバーになるための資格制度がある。 しかし、もともとこの資格制度には競争の要素が含まれていなかった。出席日数が足りているか、教科書について知識を持っているか、タイロンの能力を持っているか。(3番目は、儀式的な面が強かった) 先生と、生徒は絶えず顔を合わせて学習を進めていった。 学力が達したと先生が判断した場合、学位試験を進める。 この時点で、中国の競争試験概念は学問に取り入れられていなかったし、ヨーロッパでの官僚制度も、貴族似寄る世襲や私物化が一般的だった。 中国からわかってきた競争試験制度は、イエスズ会の経営する学校に大きな影響をあたえた。 1599年に教育法を確立して、多数の生徒を集めるようになった。 イエスズ会以外で、試験競争制度を始めて取り入れたのは、18世紀のドイツ、フリードリッヒ大王のプロイセンだった。 封建貴族の勢力を排除して、絶対主義的な君主国家を作ることを目指すため。 プロイセンの場合、この試験が大学との結びつきがあった。 大学にいる時から、この試験のための勉強をする。官僚試験の受験者は大学で勉強をし、卒業している必要があった。 また、同時に中等教育卒業試験で、合格したものには自動で大学進学が認められるという「アビツーア」試験。(1788年) これらの試験お制度化によって、大学入学者の学力水準が高められ、アビツーアを受けた人は共通の教養を持つようになった。 フランスでも、競争試験のみとを歩き始めいた。 革命前、身分や家柄がものをいう社会だったのだが、革命はそういった旧体制を打破した。 能力以外のものによって差別されない。そして、能力による平等な競争を保証するのは、義務教育を基礎においた公教育のせいどだった。 しかし、これは革命政府によって実現されなかった。 旧体制の教育制度が解体された後、中央集権的なシステムに編成したのはナポレオン。 中央集権化し、一元化された教育システムを作り上げ、国家が独占的に行う標準化された試験と証明制度によって、

Posted by ブクログ

2012/02/05
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

結構読み切るのがしんどかった本。 (固有名詞&人物名の多い)史実の詳述に中ごろのページが割かれていて、 そういう本を読むことから遠ざかっていた身には、 要素要素を全体文脈の中で位置づけつつ読むような腕力が足りず・・・睡魔に誘われることがしばしば、だった。 本の構成としては、考察(大文脈)を明示しているのは、 1章 近代化と試験の時代 -2 一九世紀ヨーロッパの試験 ~2章 試験と選抜の伝統 -2 私塾・試験・競争 まで。 ここで引用されるのが、 デュルケームの『フランス教育思想史』だったりする。 (苅谷先生の冬休みの集中ゼミで読んだ・・・多分大学在学中に読んだ中で一番分厚い&手に入りにくい本・・・あのゼミは楽しかったのですごい懐かしい・・・もっとも引用部分とか全然記憶なかったけどなっ) デュルケームを引用して紹介されているのが、イエズス会のコレージュにおける試験の導入の状況と、その背景としての個人「個我の意識」の目覚めという「近代の接近を告げるもの」としての競争の意味。 コレージュは、何よりもまず「現世的な利益とはかかわりのない、名誉をかけた学習と競争の場」として設計された。 これにより「生徒の自尊心はためにたえず過敏状態に」おかれ、 「生徒がその中で生活していた不断の競争状態は、生徒をしてその知力、意欲の全活動力を緊張せしめ、しかもそれを必然のことたらしめていた」。(p68) 自我の観念に目覚めた人間において、初めて競争に勝つという名誉が、学習への動機づけとして意味をなす。 コレージュでの教育が(ある種の)成功を収めた背景には、近代的個人としての自我の目覚めがあったという考察。 但し、デュルケームは、コレージュは(競争)試験の導入という教育システム上は「近代」の先駆けだったが、内容的には空虚であったとしている。 「生徒をはげしい、形式的な、しかし内容のない勉強に導くためには、姓との周囲を監視的配慮でとりまき、それを強化するだけでは足りないのである。 つまり・・さらに生徒に刺激を与えることが必要であった。 このためジェスイットが用いた刺激は、もっぱら競争心であった。」(p30) (学習内容に関係なく)学習への意欲を刺激する方便、というのが、この著作の前提としての試験観になる。 * 2章 試験と選抜の伝統 - 2 私塾・試験・競争 で示されるのは、江戸時代の私塾(咸宜園、適塾)において、 競争(試験)が時代に先行して取り入れられていたか。 江戸時代末期の私塾内部においては、塾生は一定のレベルで 家やその後の出世栄達へのルートと切り離された、つまり「個人として」の学力レベルや入学年次により位置づけられていた。 明治政府設立時メンバーの多くが、こうした私塾において「競争の中での個人」という自我形成を経験していたからこそ、 明治政府に対し、東大設立時のお雇い外国人ダビット・モルレーが具体的に提言した、近代学校制度における試験の導入がすんなりと受け入れられたのではないか(と、2章⇒1章に振り返るかたちで「試験ことはじめ」が語られる) * 3章以降は、明治政府において試験制度がどのように導入されていったかを学制の変遷とともに詳述される。 (いまも残る有名大学の設立経緯なんかが記述されているのでその意味では面白い。 官立大学の受験予備校として発足した私立大学とか・・・) 長い長い記述を経て語られるのは、 なぜ日本が欧米のような「卒業試験の国」ではなく、「入学試験の国」になったのかという事情。 ものすごくざっくり要約すると、高等教育機関としての大学と、初等教育機関としての小学校とが別々に、しかし同時期に作られた日本では、 小学校卒業=大学入学に足りるだけの学力を身に着けた者、とはならなかったということ。 特にネックになったのが語学力。 大学で行われる英語での授業を理解し得るだけの語学力を身に着けさせるような教育施しうるような、体系だった初等/中等教育機関を公的に作り出すことが難しかった。 この為、卒業試験とは別に、入学時にフィルタリングを行う必要があった、という。ような、話。 だった、気がする。

Posted by ブクログ

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