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越境の時 一九六〇年代と在日 集英社新書
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 集英社/集英社 |
発売年月日 | 2007/04/22 |
JAN | 9784087203875 |
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越境の時
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商品レビュー
4.6
9件のお客様レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
プルーストの「失われた時を求めて」を完訳した著者が、自身の1960年代を振り返った私記がまとめられた本。小松川事件と金嬉老事件という在日朝鮮人が裁かれた2つの事件を通じて、著者が民族問題にコミットしていった様子が簡潔に書かれている。李鎮宇をジュネにたとえたあたりや、金嬉老の弁護を支援する支援団体を立ち上げるあたりは、人の美しさや醜さがあらわれていて興味深かった。ただ、在日の問題は60年代よりは多少進展したものの現在もまだとても扱いづらいテーマなので、著者も極論を避けようと穏やかな言い回しをしているし、ここで自分が何かを述べるのも難しい。 李鎮宇は他者から規定された「朝鮮人であること」を日本人に対して告発するために口をつぐんだし、それとは対照的に金嬉老は朝鮮人であることを巧妙に利用しようとした。ここからもこの本で扱われている論が正しく理解されづらいかことを示している。しかし、それでも60年代の時代の勢いと片付けるだけでなく、民族責任について、もっと直接的な意見も欲しかった。 アルジェリア独立やベトナム戦争の頃にフランス留学していた著者の実体験の話も面白い。
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「失われた時を求めて」を個人で全訳した鈴木道彦が、60年代の自ら深くコミットしていた在日支援の活動をふり返った回想記『越境の時 一九六〇年代と在日』を読みながら、鈴木にそんな過去があることに驚いてしまった。 しかし、「失われた時を求めて」の語り手の無記名性への言及から、フラ...
「失われた時を求めて」を個人で全訳した鈴木道彦が、60年代の自ら深くコミットしていた在日支援の活動をふり返った回想記『越境の時 一九六〇年代と在日』を読みながら、鈴木にそんな過去があることに驚いてしまった。 しかし、「失われた時を求めて」の語り手の無記名性への言及から、フランスで間近に見たアルジェリアの独立闘争を経て、金嬉老裁判の支援に至る過程は驚くほど物語的であり、ほとんどスリリングとさえ言える。 たとえば、小松川事件(自分で調べてね)の犯人、李珍宇の思考の仕方に感銘を受けて書かれた「悪の選択」という1966年の文章を以下引用。かなり長いけど。 「「悪しき人間としての朝鮮人」というイメージは、常に体験的に作られるわけではないのである。もともとは支配者の作り上げた神話でありながら、これはいつか社会全体に瀰漫し、個人を侵食し、ときには朝鮮人をもむしばむ根強いイメージとなる(中略)。このとき、善良な朝鮮人になるとは、朝鮮人であるにもかかわらず善良な人間になるというにすぎないだろう。いわば例外的な存在になることだ。そして少数の例外は、多数の「悪しき朝鮮人」の存在をいっそう強固なものとするために不可欠である。そればかりか、「善き人間としての朝鮮人としての私を出す」と李が述べるとき、これは善良さを装うということとどれだけの差があるだろう。ここでもまた李は「他者」としてふるまう結果に陥るだろう。盗みとられた李の真正の主体は、一向に回復されはしないのだ」 まるでサイードの「オリエンタリズム」を読んでるような暗澹とした気分になってしまう(ちなみに「オリエンタリズム」は1978年だって。うーん、鈴木さんすごい)。 ここでも正確に述べられているように「在日」とは、単純に差別うんぬんが問題なだけではなく、むしろ、差別者も被差別者もこういう認識的な布置の中に強制的に位置付けられることが問題なのだと思う。 われわれ「日本人」は(比喩ではなく、実際に)彼らの「名前」を奪い、「言葉」を奪い、「主体」さえも奪った。たぶんそれらは実際に何人殺したとか殺してないとか強制連行があったかどうかとかいう事実認定以前の決定的なことだと僕は思う。そして、直接は関わっていない僕にもその(法律的なものではない)「責任」は間違いなくあると思うのだ。そのような事態を招来したことの責任を「自虐」と簡単に呼ぶのは、あまりに単純にすぎる。他の人はどう思うかしらんけど。 そんな場所から見ると、日本人の居直りは年々ひどくなっている。「従軍慰安婦はなかった」などと平然と言い出す人間ばかりが今の政府を構成しているのは、皆さんもご存知のとおりであり、恐ろしいことに彼らは僕らを表象代行していることになっているのだ(げー)。 そもそも、石原慎太郎のような輩が繰り返す「三国人」発言を例に出すまでもないが、知的に貧弱な人間ほど、強面を装うために「敵」を作りたがるし、「正義」を振るいたがる。「北朝鮮」(また朝鮮だよ)は言うまでもなく、「官僚」「環境」「アメリカ」など、今でも敵は溢れすぎていて、窒息しそうだ。なんてお手軽な世界。 「アンガージュマン」なんて口にすると鼻で笑われそうな今、あえてこの時期に出版されたこの本を読みながら、とてもそれが眩しく、また羨ましく、そして、なにか勇気付けられるような気分になるのだった。 優れた時代の証言として。ひとりのフランス文学者の反抗の物語として。そして、未来へのかすかな期待の残滓として。
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プルーストの『失なわれた時を求めて』の優れた個人全訳で知られる著者が、アルジェリア戦争などを契機として民族問題が噴き出した1960年代に、在日朝鮮人の問題に、ひいてはその問題の淵源である日本という問題に向き合い、李珍宇と金嬉老という二人の朝鮮人の権利回復のために闘った経験を綴った...
プルーストの『失なわれた時を求めて』の優れた個人全訳で知られる著者が、アルジェリア戦争などを契機として民族問題が噴き出した1960年代に、在日朝鮮人の問題に、ひいてはその問題の淵源である日本という問題に向き合い、李珍宇と金嬉老という二人の朝鮮人の権利回復のために闘った経験を綴った一冊であるが、その経験を貫いているのは、他者と応え合う自己の探究である。その探究は未だ途上にある。要するに、著者が格闘した問題は、現在の問題なのだ。今ここを歴史的に照らし出すとともに、歴史的な責任を踏まえて他者とともに生きる未来への思考の契機をもたらすものとして繰り返し参照されるべき名著。
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