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遍路と巡礼の民俗
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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 人文書院/人文書院 |
発売年月日 | 2006/06/15 |
JAN | 9784409540725 |
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遍路と巡礼の民俗
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目的①西国巡礼と四国遍路の習俗の比較 p16.服装 p21. 巡礼の原型「西国巡礼」 「東国からの西国巡礼者は単に西国霊場だけを廻って帰国したのではなく四国の金毘羅山なども参詣していた」ので、影響が及んだ。他、回国僧の存在など p22 「多度多拝」とは?修験者と同じ?ここに特記されているということは、西国巡礼はそうではなかった? ・巡拝回数によって納札の色分けする風習 目的②案内記の発行状況の分析 p23 「平成期にはいると歩き遍路が見直され」 目的③②を使って習俗の変化を捉える p23 江戸モデルケース【伊勢→上方→那智山~西国巡礼~中山寺で中断して四国へ→金毘羅山→円教寺で巡礼再開→谷汲山結願→信州善光寺→帰途】 p24 西国.行楽的要素強い⇔四国.接待托鉢にたよる旅 江戸時代の四国遍路では季節の変わり目には地域住人が遍路の着古した衣服を買い取ったりも 成立 p27西国 縁起ー覚忠 僧侶修験者たちが修行で霊場を廻っていたなかで、その一人に高僧としての覚忠が登場したとみるべき。 既存の有名観音寺院と新興の修験系寺院で構成されている。 久安六(平安)の順路では那智山「如意輪堂」「千手堂」2カ所入っていた 亨徳三(室町)現在の順に。東国から便利な順に変更? ???室町でもう? 伊勢→熊野大社→京坂「中入り」芝居などで一息→播州→丹波→近江→美濃谷汲山で結願→善光寺→中仙道東海道を使って帰郷 p28坂東 西国巡礼の代替。花山法皇説は単なる伝説。史実的に確証が高いのは都々古別神社墨銘。天福(鎌倉)には成立していたことがわかる。 鎌倉武士が警護などで上洛し、都の文化に触れ、札所巡礼にも興味をもったことにより興った。p31 初代将軍一家の観音信仰の影響も考えられる。 p33秩父 史実的には長享二(戦国)秩父観音札所番付。江戸市民に人気が高かった。廃仏毀釈で荒廃。高度成長期に復興 p37 真済.真如親王.右衛門三郎伝説。史実的には今昔物語「僧三人伴いひて、四国の邊地と云は‥」梁塵秘抄「われらが修行せし様は‥四国の辺地をぞ常に踏む」、鎌倉に入ると「邊路」という言葉がでてくる。遍路八十八カ所霊場となったのは文明三(室町)寄進の鰐口の銘に注目したいが、詳細がわかるのは承応(江戸)『四国遍路日記』が最古 p41修行僧には「百観音巡礼」それに四国を加えて「百八十八カ所巡拝」を行う者も !【接待講】←四国外から接待品を持ってやってきて,一定期間霊場で接待を行う講。紀州接待講の始まりは江戸時代末期か 習俗 p43【御詠歌】 p47【菅笠と金剛杖】 現在残るのは四国遍路のみ。 杖:昔は軽くて手に入れやすい竹の杖が多かったのが、杉にかわり大師にまつわるいわれもつき、かたちも「角を削る」に→「「金剛杖」とよばれるようになり、「卒塔婆」ともみなされた 笠:四句の偈=在家の葬式のとき僧が棺や骨壺に書いたもの→遍路の途で死んだ場合、笠を遺体にかぶせ棺かわりに。p49 ”旅人の道具”→”宗教的小道具”に p50【笈摺・白衣】 笈摺:巡礼のシンボルのようなもの。室町には習俗化 荷俵 笈 おいづる
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先日読んだ『遍路と巡礼の社会学』の続編と言えるもの。 装丁もほぼ一緒です。 前書は集計データを元にして遍路や巡礼者についての実態を探った内容で、本書は数値以外の他の資料も参考にした上で、さらなる考察を試みたものとなっています。 前書は、数値による正確さが前面に押し出されており、...
先日読んだ『遍路と巡礼の社会学』の続編と言えるもの。 装丁もほぼ一緒です。 前書は集計データを元にして遍路や巡礼者についての実態を探った内容で、本書は数値以外の他の資料も参考にした上で、さらなる考察を試みたものとなっています。 前書は、数値による正確さが前面に押し出されており、クリアでわかりやすかったものの、深い考察への発展はないままに終わり、多少の物足りなさが残りました。 本書では、もっと調査対象との距離が狭まり、遍路について豊富な例を挙げて具体的に述べられています。 ただ、同じテーマであるだけに、前書と共通する事項のまとめがそこかしこに見られます。 マクロとミクロという視点の変更があれば、もっとメリハリのある二冊になったのではないでしょうか。 今回も、観音巡礼と四国遍路についての調査のもと、相互比較がなされます。 白装束は俗に遍路姿と言われ、観音巡礼ではめったに遍路姿が見られないのは、双方の目的が若干違うからとのこと。 四国遍路の方が信仰心を重視する割合が多く、長い全行程を周る旅の身支度が必要であるためですが、四国では「霊場会」が一連の巡礼作法の統一化を図っているのが一番の大きな理由であり、まずは信仰より先に形から入るという人も多いそうです。 遍路という独特の言葉は、海辺や山野の霊場を巡ることを辺地や辺土といい、それが遍路となったという由来を知りました。 種田山頭火や十返舎一九が四国遍路、白洲正子が西国巡礼をしたことが紹介されています。 放浪俳人の種田山頭火は、身の破たんからほぼ無一文の状態で、二度遍路を体験したとのこと。 それが可能だったのは、接待という風習があってこそです。 また、幸月という名で句集を出した80歳の遍路がTVで紹介され、それを見た警察に殺人未遂の容疑者と断定された話も載っていました。 容疑者も、接待のおかげで素性を隠したまま長年遍路を続けられたのです。 何らかの事情を抱えて国元を追われたり、不治の病とされたハンセン病患者などは、死ぬまで一生遍路を続けたとのこと。 前向きな信仰心からだけでなく、死に場所を探すための遍路もいるようです。 接待とは、昔懐かしい四国の風習かと思っており、実際に昭和五十年代には自動車の普及で個人による接待が衰退したものの、平成期に入り、歩き遍路が見直されてからは、また数が増加しているそうです。 古来、遍路行脚は命を賭した大変な体験だったため、その記録を残した経験者は大勢いたとのこと。 そうした遍路や巡礼の関連本についても、時代別に記載されています。 このくだりだけ紹介文的で、論文というよりエッセイ調になっているのが気になり、冗長に感じました。 各タイトルや内容紹介までは必要なく、もっと端的にまとめてもよかったように思います。 一般的に手に入りやすい資料ということで、記述が多いのかもしれません。 目下、遍路に関する出版物のブーム期だそうです。 今では、それらの体験本を読み、誰もが遍路に出かけられるという勇気をもらって、自分も体験しようとする人が増えているとのことです。 そう言った意味で、遍路の本質的普遍化が進んでいるように感じます。 前書をさらに少し膨らませた内容となっていますが、読んでみると、各章で 「国元を追われた遍路は死に場所を求めて四国を周り続けた」 「西国は徒歩巡礼が少ないため感動が少ない」 といった同様の記述が、何度も繰り返されていることに気がつきます。 全体的にもっとコンパクトにまとめられた内容であると感じますが、他の体験本やガイドブックでは得られない、遍路の全般的な実態把握には、非常に有意義な一冊となっています。
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