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カミとヒトの解剖学 ちくま学芸文庫
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 筑摩書房/筑摩書房 |
発売年月日 | 2004/04/30 |
JAN | 9784480086747 |
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カミとヒトの解剖学
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『唯脳論』(1998年、ちくま学芸文庫)で知られる著者が、その立場を敷衍しつつ、宗教や倫理、文学、社会にかんするさまざまなテーマについて論じたエッセイです。 『仏教』という雑誌に連載されたコラムをまとめた本で、死と生をめぐる議論がとくに大きなテーマとしてとりあげられています。そ...
『唯脳論』(1998年、ちくま学芸文庫)で知られる著者が、その立場を敷衍しつつ、宗教や倫理、文学、社会にかんするさまざまなテーマについて論じたエッセイです。 『仏教』という雑誌に連載されたコラムをまとめた本で、死と生をめぐる議論がとくに大きなテーマとしてとりあげられています。そのさいに著者は、解剖学者という立場から死体という物に立脚点を置き、死のような理解しがたい自然を存在しないものにしてしまう現代の「脳化」社会の盲点を鋭く撃ち抜いています。 著者の立場である「唯脳論」とは、「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である」という主張にまとめられる考えかたであり、構造と機能、脳と心という二元論を無礙に通底する思索を展開するところに、その強みがあるように思います。著者はそうした立場に立って、近世の日本における身体の忘却という「都市化」ないし「脳化」の傾向を批判し、禅においても「修行」が重視されていた中世から、「唯神気論」への移行があったことを指摘しています。ただ、二元論の両極を無媒介に通底させる著者の発想は、たとえば本書でも言及されている鈴木大拙の議論とは多少のへだたりがあるように思います。「此土が彼土であり、彼土が此土であるというと、娑婆即寂光土とか、唯心の浄土、己身の弥陀ということに解されよう。愚見はそうではないのである。……仏教哲学者の真意―即ち事実に即して説かんと欲するところ―は、浄土と穢土とは相互矛盾で、それが即ち自己同一の存在であるということでなくてはならぬのである」という大拙のことばを著者は引用していますが、この「相互矛盾」が著者の「唯脳論」ではどのようなあつかいになるのかということは、本書を読んでもあまり明確に見えてこないように感じられます。
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寝る前ベッド本として2ヶ月くらいかけて読了。 雑誌の連載をまとめたコラム集。 ちびちび読んだのでまとまった感想を書くのは難しいが、どの編も興味深く面白い。 膝打ちまくり。 解剖学的視点で宗教、社会、生死、妖怪、量子力学、文学、更にはドラゴンボールなどについて書かれている。 養老...
寝る前ベッド本として2ヶ月くらいかけて読了。 雑誌の連載をまとめたコラム集。 ちびちび読んだのでまとまった感想を書くのは難しいが、どの編も興味深く面白い。 膝打ちまくり。 解剖学的視点で宗教、社会、生死、妖怪、量子力学、文学、更にはドラゴンボールなどについて書かれている。 養老先生の本は結構読んでいるが、自分の興味と重なるテーマが多く、それを一言で言えば、「人間について、この世界について知りたい」ということだと思う。 宗教、哲学、科学など色々な説明の方法があるが、解剖学や脳という切り口での説明がとてもしっくりくる。 キレッキレの文体もクセになる。 唯脳論も再読したくなった。 フィクションでもノンフィクションでも、読み終わった後に自分の中で変化が起こる読書は良い。
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瀬名秀明氏の『ブレインバレー』を読んだ時にあはせて買つたものだと思つたから、もうかれこれ10年以上前に少し読んだきりになつていたと思ふ。 あの時は考へるといふことがよくわからず、ただ与へられるものをそのまま受け止めていただけだつたから、随分難しく、結局読み終らずになつてしまつた気...
瀬名秀明氏の『ブレインバレー』を読んだ時にあはせて買つたものだと思つたから、もうかれこれ10年以上前に少し読んだきりになつていたと思ふ。 あの時は考へるといふことがよくわからず、ただ与へられるものをそのまま受け止めていただけだつたから、随分難しく、結局読み終らずになつてしまつた気がする。 それから幾分か時が流れて、池田某との出会ひがあり、『唯脳論』がおもしろく感じられるやうになつてから読んでみると、あの時の難しさが嘘のやうにするすると読める。時間とは不思議なものだ。 「かたち」といふものはどうしても揺ぎ無い実態だ。 たしかに、社会は、ひとは、脳化の一途を辿つてゐる。様々な技術、発見、どれをとつても脳がその働きを自身の外に投影したものに他ならない。ある意味で、脳の自己充足こそが社会といふ存在なのかもしれない。この長い時間の中で繰り返されてきたものを眺めるとさうとしか思へない。何かが実現できるといふことは、それに対応した形が脳に存在するからに他ならない。ないものはない。あるものがある。 しかし、目の前に死体といふ形が存在する。視覚に訴える美術もさうである。黄金比であつたり、様々な技法や象徴が紛れもなく、形として存在する。どういふわけか、わからないものが「ある」。脳にとつてこれほど不気味で不可思議なものはない。死体が隠されるのも、不気味だからに他ならない。なぜなら、脳は死んだことがないからである。 宗教とは、元来、原始的な「ない」といふものを「ある」と信じ、了解する脳の働きに他ならない。一方の科学は、脳の中にしか「ない」ものを、脳の外に「ある」やうにさせる脳の働きである。どちらも、脳の働きでしかない。科学は脳の中に「ある」ものだけしか扱へないから、脳の中に「ない」ものは宗教に賴るほかない。一方の宗教は「ない」ものを「ある」と了解為ざるを得ない逆説的な行為である。どちらかと言へば、科学よりも宗教の方が、脳にとつては原始的な働きではないかと思ふ。脳の高次低次(進化的に最初か後か)が対応するなら、聴覚の方が先で視覚の方が後であるなら、宗教が視覚以外に働きかけるものが多いのは、それだけ宗教が原始的な働きであるからではないか。視覚に訴える宗教は宗教史的にも新しい部類になると思ふ。科学は感覚的であることをむしろ嫌ふ。視覚的に示さうとする。未来予測や公式化といふのは、視覚の働きに他ならない。 どちらにしろ、脳の働きなのである。なぜさうなのかといふよりかは、どういふわけか、さういつたものものが結びつきやすいといふことになつてゐるやうである。 どちらも脳の働きなのだから、その片方だけを切り出し続けることはできない。そんな風に人間はできていない。遺伝子操作が人間の生命を支配することとは同等ではない。生命とはよくわからないものなのだ。死んだら終りといふこともわからない。どうやら、脳の高次の部分はよくわからないものを統制し、なんとかわかるやうに見せかけることを求めるのである。
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