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詩とメーロス 詩論1980~1990
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 思潮社/ |
発売年月日 | 1990/10/01 |
JAN | 9784783715351 |
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詩とメーロス
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胎児は<生れでぬままの永世>を欲している。 死をみつめる?――それは、幻想すること、さらに妄想することでさえあるだろう。そこにすべての妄想、幻想は収斂し、そうではなくて、死が事実-ファクト-であること、すなわち、死がわたしのさいごの事実-リアル-であること、それをみとめることがさいごの、了解なのだ、みつめる‥‥とすれば、それは、死がわたしという事実をみつめている、ということなのであり、おそらく、死を観念することは、認識的エロス/エロス的認識を成立せしめることであり、死を行為することは、了解的エロス/エロス的了解に到ることである。このとき、認識と了解は、わたしという事実において、また、わたしという事実を、交接-認識×了解-のエクスタシィ-脱自-に、解放する。それは、恐怖と苦痛からの、さいごの解放。虚無の現前なのだ。 死とは、自明のことなのだが、虚無である。しかしこの虚無は、わたしの死という事実において/のなかに、しか現前する場をもたない。死ぬことができる――存在者-死すべきもの/わたしたち-であるとは、虚無を現前させることができることの謂いである。 存在としての宇宙は、虚無に-を-関知しない。 虚無は、宇宙と世界のあいだに、<存在しない>というトポスを、内化するのである。そのように、死すべきものは、存在を認識し了解してきた。 -そのように、わたしはハイデガーをよみとってきた- M・Hの<存在と時間>は、その主題は、死であるが、それは、死への往路、として認識論だった。だから、その復路-死からの復路-として、<時間と存在>とよべるだろう了解論が、みちびかれることは、当然でもあった。わたし-たち-の立場は、そこにはじまりをうる。 いまここにいたひとりが、いなくなってしまったとしたら、それはそのひとが消えてしまったからではなく、どこかへ行ってしまったからだ。 死がいなくなることであるなら、死んでもはやここにいないひとは、どこかへ行ってしまった、ということなのだ。 どことさだかにできずとも、どこかへゆく、そのことをぬきにして、死をいなくなることと了解することは、できないだろう。 じぶんにたいして、じぶんがいなくなる――ということは了解不能である。 だから、わたしは、<いま・ここ>を「どこか」であるところの彼岸へ、やはり連れ込みたいのだ。 どこへも行かない。この場で果てるのだとすれば、死とはすなわち物質的なまでの<いま・ここ>の消滅である。 だから<いま・ここ>を、あたうかぎりゼロに還元してゆけば、その究みで<わたし>はみずからをほとんど自然死へと消去してゆくことになる。 彼岸ではなく、どこまでもこちらがわで死を了解しようとすれば、それは<いま・ここ>の成就のすがたなのだとみるほかはあるまい。 外見はどのようにぶざまで、みすぼらしくみにくくとも、死は、私の内界に、そのとき、<いま・ここ>の成就としてやってきているのだ。
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