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神戸新聞の100日 阪神大震災、地域ジャーナリズムの戦い
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | プレジデント社/ |
発売年月日 | 1995/11/30 |
JAN | 9784833415965 |
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神戸新聞の100日
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地域に密着した新聞社 何処の都道府県にも愛される地方紙がある。 阪神大震災を受け本社の崩壊、新聞を作るためのコンピュータシステムのダウン、 目の前で起きている現実を読者に伝えるために1300人の神戸新聞の社員たちは、立ち上がる。 新聞記者として、企業人として、人として、彼らのす...
地域に密着した新聞社 何処の都道府県にも愛される地方紙がある。 阪神大震災を受け本社の崩壊、新聞を作るためのコンピュータシステムのダウン、 目の前で起きている現実を読者に伝えるために1300人の神戸新聞の社員たちは、立ち上がる。 新聞記者として、企業人として、人として、彼らのすさまじいまでの熱い想いが凝縮された1冊 被災者でありながら、被災地を走り回る、新聞記者や、カメラマン、新聞人としての生き様が伝わってきます。 システムが壊滅するも奇跡的に一部機能は無傷で残る 「緊急事態発生時における新聞発行援助協定(94年)」を結んでいた京都新聞の協力で無休刊で発行を続けた、ことは特筆に値することだと思う。
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阪神大震災から20年…ということもあり、当時の記録本を読む。小松左京の『大震災 '95』でも、田辺聖子の『ナンギやけれど… わたしの震災記』でも言及されていたのが、神戸新聞※の論説委員長であった三木康弘さんの社説「被災者になって分かったこと」。 この地元紙の被災後1...
阪神大震災から20年…ということもあり、当時の記録本を読む。小松左京の『大震災 '95』でも、田辺聖子の『ナンギやけれど… わたしの震災記』でも言及されていたのが、神戸新聞※の論説委員長であった三木康弘さんの社説「被災者になって分かったこと」。 この地元紙の被災後100日の記録を借りてくる。単行本は1995年の11月末に出ている(1999年に文庫になった際に、「被災地の1826日」が収録されているそうだ)。 震災で神戸新聞は本社の新聞会館が全壊、コンピューターによる紙面制作システムが壊滅したが、たまたま前年に京都新聞と結んでいた「緊急事態発生時における新聞発行援助協定」により、全面的な協力を受けて新聞発行を続けた。 社長の荒川は「何としても新聞を出せ。後は心配するな」(p.62)と言った。神戸新聞はそれまで、休刊のピンチが二度あった。1918年(大正7年)米騒動による焼き打ちに遭ったとき、そして1945年3月17日の空襲によって本社屋が焼失したときである。だがそのときも、新聞発行は途切れなかった。 95年の震災時は三度目のピンチだったが、1月17日も京都新聞の協力で製作した夕刊フィルムをバイクで運び、無事だった神戸の輪転工場で印刷して夕刊を発行した。 神戸へ行ってくれと荷物を託され、ナナハンで走った宏和運輸の渡辺さんは、なんとか神戸には入ったものの、これ以上進むのは無理だと会社に報告するつもりだったという。「とにかく道路という道路は走れない。車道も歩道もない状態でしたから。火災は起きているし、危険だ」(p.94)と会社に電話した。だが、電話がかからず、渡辺さんはもう少し走ってみることにしたのだ。神戸新聞の製作センターに到着し、渡辺さんは初めて運んでいたものが夕刊フィルムだと知った。 京都新聞の業務のあいだに割り込むようにつくる紙面は制約も多く、搬送時間がかかるため出稿時間を早めざるを得ず、薄いものだった。1月19日の一面コラム正平調[せいへいちょう]は、《無念で仕方がない。いつもの分量で記事が載らないのだ。定時に、読者の元へ届くはずの神戸新聞が、多くの地域で思うように配達できないのだ。他紙を、これほど痛恨の思いを込めて読んだことはない》と伝えたという。 取材に出るカメラマンや記者たちは「何のために撮る」「何を伝える」と問われ続けた。自分は何の役にも立たない、報道って何なのかと悩む記者たちもいた。デスクは「被災者だったら、どう感じるか、何を言いたいか、何を知りたいか。いつも、そのことを頭において、被災者のための新聞をつくっていこう」(p.198)と繰り返し言った。「被災地で新聞を手に取る人が共感できて、希望を持てる紙面にしよう」(p.198)と。 そして、日々載せきれない記事は「紙面が回復するまで、しっかり取材してためておく」(p.200)ことにして、全員が毎晩出す情報メモを日付ごとに袋に詰めて、段ボールにためていったという。これらの情報が、後に検証シリーズ「大震災 私たちのそれから」や「地下で何が起きたのか」の連載につながった。 販売店では、届いたものの配れない新聞を「神戸新聞読んだって!」と、道行く車中の人に渡していた。1月25日にそうやって神戸新聞を手渡された人の話が載っている。 ▼新聞はつくっただけでは、ただの紙切れに過ぎない。届ける人間と手に取って読んでくれる人がいて、初めて生きる。(p.186) 小松の本で出てきた、途中階の挫屈の話もある。 ▼阪神大震災のビル被災で目立ったのは途中階の挫屈だった。神戸新聞会館の場合はそれほど極端ではなかったが、やはり中間の三、四階の損傷がひどく、廊下は落下寸前になっていた。(p.110) 後に、社会部デスクを中心にした分析班は「地下で何が 検証・断層と地盤」の連載をしている。自転車と徒歩で調査を続け、震災後に被災地入りした研究者たちが推論した"潜伏断層説"をくつがえした。 デスクの三木は、「勝った、負けたではなく、フィールドを知ることがいかに大切かという教訓であると思う。科学分野に限らず、あらゆるテーマも同じだ。それだけに地元紙の震災報道は責任が重い」(p.272)と語っている。 この検証シリーズの記事を読んでみたいなあ…。 神戸新聞は、1898年(明治31年)に創刊している。初代社長は、あの松方コレクションの松方幸次郎なのだった!へぇぇ。この人は川崎造船所(いまの川重)の社長でもあって、"明治、大正期の産業界で風雲児と呼ばれた"そうである。 (3/4了) ※神戸新聞サイト http://www.kobe-np.co.jp/
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