- 中古
- 店舗受取可
- 書籍
- 書籍
- 1216-03-01
風景と記憶
定価 ¥10,450
4,840円 定価より5,610円(53%)おトク
獲得ポイント44P
残り1点 ご注文はお早めに
発送時期 1~5日以内に発送
店舗受取サービス対応商品【送料無料】
店舗到着予定:3/9(月)~3/14(土)
店舗受取サービス対応商品
店舗受取なら1点でも送料無料!
店舗到着予定
3/9(月)~3/14(土)
商品詳細
| 内容紹介 | |
|---|---|
| 販売会社/発売会社 | 河出書房新社 |
| 発売年月日 | 2005/02/28 |
| JAN | 9784309255163 |

店舗受取サービス
対応商品
店舗受取なら1点でも送料無料!
さらにお買い物で使えるポイントがたまる
店舗到着予定
3/9(月)~3/14(土)
- 書籍
- 書籍
風景と記憶
商品が入荷した店舗:0店
店頭で購入可能な商品の入荷情報となります
ご来店の際には売り切れの場合もございます
オンラインストア上の価格と店頭価格は異なります
お電話やお問い合わせフォームでの在庫確認、お客様宅への発送やお取り置き・お取り寄せは行っておりません
風景と記憶
¥4,840
残り1点
ご注文はお早めに
商品レビュー
4
1件のお客様レビュー
日本語版の表紙に使われている絵は、カスパール・ダヴィッド・フリードリヒの「山の十字架と教会」。針葉樹林を背に、岩の上に立つ木の十字架、そしてその背後に樹影と相似形をなすようにして建つゴシック寺院。いかにもドイツ浪漫派の色濃い神韻縹渺たる名品だが、サイモン・シャーマの衒学的博覧強記...
日本語版の表紙に使われている絵は、カスパール・ダヴィッド・フリードリヒの「山の十字架と教会」。針葉樹林を背に、岩の上に立つ木の十字架、そしてその背後に樹影と相似形をなすようにして建つゴシック寺院。いかにもドイツ浪漫派の色濃い神韻縹渺たる名品だが、サイモン・シャーマの衒学的博覧強記の筆にかかると、この北ドイツの針葉樹林が、大西洋を間にはさんだカリフォルニア州ヨセミテ渓谷のアメリカ杉と重なって見えてくるから不思議だ。 よく黒々と聳える深い森を指して「伽藍、聖堂のような森」というが、何気なく使われるその常套句の下には「異郷の原始林、その樹木崇拝とはっきり森を思わせるゴシック聖堂とを繋ぐ、長く豊かな重要な歴史が横たわっている。北欧の樹木信仰から『生命の木』、木の十字架といったキリスト教図像を経て、常緑の針葉樹と復活の建築をはっきり同じものと見るカスパー・ダーフィット・フリードリッヒに至る線」があることを、豊富な図版、文献資料をもとに、証明してみせる。 リトアニアから始まりゲルマンの森、シャーウッドの森と、連想ゲームさながら、森に係わる偉人、奇人、歴史から忘れ去られてしまった者まで掘り起こしては、その逸話の中に埋もれている記憶の古層を手繰り寄せる。証拠品のように持ち出される絵画もフリードリヒやターナーのようなよく知られた名作ばかりではない。古拙な木版画から古い写真まで、よくも探し集めたと感心させられる、そうした絵や写真を眺めながら、作者の話を聞いていくと、いつの間にかそこに浮かび上がるのは紛れもない一本の線である。 森の中に八百万の神を見る多神教の民であるわれわれ日本人とはちがい、西洋では文化と自然は一が立てば他は立たずという関係にある、というのが前提だ。このままでいけば、多くの自然が失われていくであろう今、文化と自然が縒り合わさった紐帯の力を示すことによって、「ひとつのものを見る見方を、われわれが既に持っていながらどういうわけかそれと認められず、それとして賞味することもできないでいるものをいかにして再発見できるかを示そう」というのが、この書が書かれた動機である。 森だけではない。2部では水、3部では岩山を採り上げ、「日常的な目線から遙か下に掘り下げていって、表面の下に広がる神話と記憶の鉱脈を再び掘り起こす」という方法論によって、ヨーロッパの国々から新大陸アメリカまで、縦横無尽に「神話と記憶の鉱脈」探索の旅に出る。ウォルター・ローリー卿の悲運のエルドラド探索行や、ラモン・ド・カルボニエールという稀代の山師の成り上がり物語といった、綺人、夢想の数々が惜しげもなく開陳される椀飯振舞い。百科全書や博物学的知識に目がない向きには垂涎の的という代物である。 風景というのは自分の外にあるのではない。自分の中にある記憶をもとに外に投影されたものをわれわれが風景と再認しているに過ぎない。となれば、その記憶の元になったものは何か。例えば、パリはフォンテーヌ・ブローの森を歩くロマンティックな散策の喜びを発明したのはクロード・フランソワ・ドゥヌクール。兵役で傷めた足を引きずりながら物盗りの出没する物騒な森を歩いては、特徴のある木や洞窟に名を付け、矢印で道を示し、幾つもの散策路を拵えた。 こうした奇癖奇行の人々があって風景の記憶が伝播する。彼らはなぜ、生涯を賭け、余人には計りがたい情熱を持って風景の記憶の守護者たらんとしたのだろうか。作者は、「彼らが情熱的になるのは、それらが時代の生のうつろさを癒してくれるものなのだと観じていたればこそであった」という。振り返ってみれば、現代のわれわれの関心の的になるものは、誰の手になるものか。「帝国が、国家が、自由が、企業が、独裁が―その支配的概念に何か自然の形式を与えようとして地誌を召喚、呪呼してきた」ものではなかったか。 であればこそ、作者は歴史の闇の中に埋もれながらもぐらのように風景の記憶の鉱脈を掘り進んできた数多の先達を言祝がずにはいられない。声高に環境保全を言い立てるのもいいだろう。それもひとつのやり方だ。だが、風景の過去の伝統を知ることは、未来に向けての知恵を我がものとすることではないか。「美学史」を論じたものである。しかも大著。なのに、読後心に温かなものが宿る。二段組み738頁という大冊。読むのに覚悟はいるが、ペースをつかめば、あとはぐいぐいと読んでいける。
Posted by 