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失われた時を求めて(9) 第五篇 囚われの女1
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失われた時を求めて(9) 第五篇 囚われの女1

マルセル・プルースト(著者), 鈴木道彦(訳者)

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失われた時を求めて(9) 第五篇 囚われの女1

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 集英社
発売年月日 1999/05/25
JAN 9784081440092

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2013/03/07
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「私」は、パリの家の一部屋にアルベルチーヌを住まわせ、一緒に暮らしはじめる。一見自由に芝居を見に行ったり買い物をしたりするアルベルチーヌだが、「私は」監視の目を光らせていた。ヴァントゥイユ嬢と女友達がヴェルデュラン家の夜会に出るときいた「私」は、アルベルチーヌには内緒で夜会に出かけて行く。その夜は、モレルによってヴァントゥイユの七重奏曲が初演されるというので、シャルリュス氏は、社交界の面々を引き連れ、ヴェルデュラン家を訪れていた。しかし、社交界における自分の影響力に気をよくしたシャルリュス氏は客の分際をわきまえずに振舞い<女主人>のご機嫌を損ねる。自宅に帰った「私」は、ヴァントゥイユ嬢のことからアルベルチーヌと口論し、別れ話を持ち出す。一度は和解したものの、ある朝アルベルチーヌは家を出て行く。 もともと、話があるようでないのが『失われた時を求めて』という作品だが、第五篇「囚われの女」においてもストーリーにさしたる進展はない。少数の友人を除いては誰にもその事実を告げず、結婚もしていない女を自分の屋敷に住まわせるというのは、女を囲い者にする訳だが、そうまでして女を自分の傍に置いておきたい理由が、女の過去の同性愛相手に対する嫉妬でしかない。「私」の愛は、とうにアルベルチーヌから離れている。 「私」は、アルベルチーヌに嫉妬心を抱いたときだけ所有欲が起きる。蒐集家が、愛着の薄れたコレクションを手放そうと思ったとき、そのコレクションを欲しがっている相手がいることを知り、相対的にその価値が再浮上したため、手放すのを考え直すようなものだ。アルベルチーヌはそれを知ってか知らずか、臆面もなく嘘を付き続けることで、「私」の疑惑を再生産し、関心をつなぎとめている。そうすることで結果的に豪華な衣裳や装身具から車に至るまで、貢がせることができるからだ。有閑階級の見せかけの豪奢な生活は打算に満ちた関係に裏打ちされている。 ストーリーに進展はなくとも、社交界に変化は起きている。今やバレエ・リュスの<女主人(パトロンヌ)>として押しも押されもしないヴェルデュラン夫人の夜会は芸術家たちがこぞって集う場となっており、上流貴族にとっても無視できない勢力を誇っている。しかし、当の夫人にとって音楽は客寄せの手段でしかなく、そこで交わされる会話にしてもエスプリを感じさせるものではない。権力者として、自分を軽視した男爵に腹を立てたヴェルデュラン夫人は、悪意のある中傷で、モレルとシャルリュスの仲を裂こうとする。そこにあるのは、今に変わらぬ小集団同士の醜い派閥争いであり、卑俗極まりない。 夜会といっても、気鋭の音楽家の演奏を除けば、職場の飲み会の内幕話と何ほども変わらぬ卑俗な会話を、聞いたまま右から左にたれ流し続けるか、そうでなければ、アルベルチーヌの過去についての疑惑から導きだした恋愛心理についてのあれこれを評論家の如くとうとうと述べ立てる「私」の長広舌には、ほとほと閉口する。ただ、そんな中に唐突に真正の批評家が顔を出すときがあるので、うかうかと読み飛ばすことができない。 「私」は、ヴァントゥイユの七重奏曲を聴きながら、かつてスワンとオデットのための曲として親しんだソナタとの類似を認めながらも、大きく異なる点を発見する。ボードレールの唱えた「万物照応」以来、音楽を評するのに色彩の比喩を用いるのは珍しくないが、まるで一枚の大きな画布に描かれた絵画を次から次に眺めていくように描写されるヴァントゥイユの七重奏曲についての分析は見事な架空の音楽批評たり得ている。 しかも、話はそこから芸術論に発展し、優れた芸術の果たす役割について論じられることになる。このあたりになると話者である「私」の論でありながら、作家プルースト自身の芸術観を述べたものとして読みたいという誘惑に読者は耐えられない。 独創的な芸術家が持つ唯一無二の語調(アクサン)は、作家の個性的存在の証である。芸術家は自分でも忘れてしまった未知の祖国の市民であり、彼の語調はそこでかつて聞いたものなのだ。それは、言葉によって表現できないものであり、ただ、芸術だけが、その個人的な世界の内的構造をスペクトルの色として外部に示すことができる。要約してしまえば、ありきたりの芸術論にも見紛おうが、ヴァントュイユの音楽やエルスチールの絵を引用して語られるこの芸術観は、男色家同士の漁色の話題や傲岸不遜な自画自賛、上面だけの追従の言葉ばかりが打ち寄せる汚濁の海にあって波の間に間に見え隠れする切り立った巌のように一際鮮やかに屹立して見える。

Posted by ブクログ

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