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「責任」ってなに? 講談社現代新書
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商品詳細
| 内容紹介 | |
|---|---|
| 販売会社/発売会社 | 講談社/ |
| 発売年月日 | 2005/12/20 |
| JAN | 9784061498211 |

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商品レビュー
2.8
7件のお客様レビュー
専門的な言葉を使わずに、でも深くつっこんだところまで議論している、読み応えのある本。 著者によると「責任がある/を負う」とは、互いに「問いかけ・呼びかけうるし、応じうる」間柄を生きること。これは個人レベルでの責任とは、呼応可能な間柄を作り出し、維持し、発展させていこうとする態度を...
専門的な言葉を使わずに、でも深くつっこんだところまで議論している、読み応えのある本。 著者によると「責任がある/を負う」とは、互いに「問いかけ・呼びかけうるし、応じうる」間柄を生きること。これは個人レベルでの責任とは、呼応可能な間柄を作り出し、維持し、発展させていこうとする態度を見せること。集団レベルではこの態度を、集団内・外の人に見せること。 ずっと責任を負うことに対してマイナスなイメージしかなかったが、人間関係を豊かにするためにも大切なことで、基本的なことだと知った。
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自由意志と決定論については両立論を取る。自己組織化による自由な決断が確保される。責任は、理由の空間への問い。 責任を負う基準は「他のようにできたか否か」「しなかったら怒らなかったか」「したのに起きないことはない」というもの。だが、これは行為だけではなく、行為を控えることにも拡大さ...
自由意志と決定論については両立論を取る。自己組織化による自由な決断が確保される。責任は、理由の空間への問い。 責任を負う基準は「他のようにできたか否か」「しなかったら怒らなかったか」「したのに起きないことはない」というもの。だが、これは行為だけではなく、行為を控えることにも拡大されるべきである。無為についての責任。 「他のようにできたか否か」ということに関して、「役割上仕方なかった」ということが言われよう。その場合、責任主体は集団となるだろうが、構成員も集団に参加する意志があるかぎりは責任を負わなければならないだろう。個人の一貫性を簡単に放棄できないように、集団の一貫性も簡単には放棄できず、負の責任も引き継がねばならない。 だが、「それはあくまで役割であって、ホントウの自分ではない」という言い逃れが、集団と個人という葛藤を離れたところでもされるようになった。挙げている例によれば、大庭健であるということすら役割として、ホントウの私を別に確保しようとする解離はどう可能になるのか? 理論的に可能なのか? 「私は大庭健である」という文は客観的な世界描写に登場しない→私は大庭健である、という事実は、世界の中の事実ではない、という議論。「私」が誰を指すか、というかのはどうしても客観的描写に書き込まれることはありえず、コンテクストによって指し示されるほかない、ということ。ここまでは良くても、 「私は大庭健である」という文は客観的な世界描写に登場しない→私は別のどの人物の視点からでも世界をみることができる、ということになるのだろうか。「私が客観的な世界描写(=私は大庭健であるという事実がない世界)を考えることができる」すなわち「他人が、大庭健をどう見ているかを、私は想像できる」ということは、「私は、他人の観点から大庭健を見ることができる」だとか「別の視点に立っても私は私である」ということにはならない。認識論的な可能性を指し示す前者の文が、存在論的なコミットもある後者の文に言い換えられるわけではない。そして、この言い換えを許してしまうと、「私は、いまのところ大庭健の視点から世界を見てはいるが、大庭健とは独立の存在だ」ということになってしまい、他者が消去されてしまう。ひいては呼応可能性としての責任が揺らぐ。 この解離を現代日本にも見出し、ドイツや日本の戦後責任の扱いとか、未だに日本にテロリズムが残存していることもも論じるが、それは省略。戦後日本が対話能力を欠いた巨大な幼児のようだ、構造的な無責任。 私はふるまいとフィードバックでできている。フィードバックは情報をすべて受容するわけではなく、入力と雑音に仕分けられる。この選別のゆがみが問題を起こす。個人の場合はそれが先入観、自己イメージ、みずからの主義主張だったりすると言う。集団もおなじようにふるまいとフィードバックで構成される。集団は機能的なシステムであり、選別はコードとして共有される。コードに過剰適応したり、あるいはコードによって責任を負うことと自分を解離させることの息苦しさは問題になるだろう。呼応可能性としての責任は変化の希望であるとして締められる。 しかし、じゃあどうやってよりよい選別をしていくか、選別を変えていくことはできるのか、ということについては触れていない。あるいは、どうやって変化の可能性を担保するのか。 あるいは、なぜ責任を持たなきゃいけないのか。そうじゃないと息苦しいよ、というところに行き着くのだろうか。責任を持たないところで生まれてくる問いが誤りだからよくないのだろうか。あるいはそれが暴力になるから、ということになるのだろうか。
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「役割と自分」を切断することにより、消すことができない自分が選択した事実を合理化する。「なりゆき」の論理が、旧日本軍、学校でのいじめにあり、社会での構造的な無責任の継承に繋がっている。
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