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路上の人
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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 徳間書店スタジオジブリ事業本部/ |
発売年月日 | 2004/02/29 |
JAN | 9784198618230 |
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路上の人
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「イエス・キリストは笑ったか?」 救世主キリストを《神の子/人の子》のどちらに重きをおいて見れば、カトリックは普遍たるか…という厳しく苦しい問いから始まる。時代は暗黒の中世、舞台は広くヨーロッパをつなぐ「路上」。立場的アジールであるヨナの視点から司祭階級や帝国、迫害される異端派の...
「イエス・キリストは笑ったか?」 救世主キリストを《神の子/人の子》のどちらに重きをおいて見れば、カトリックは普遍たるか…という厳しく苦しい問いから始まる。時代は暗黒の中世、舞台は広くヨーロッパをつなぐ「路上」。立場的アジールであるヨナの視点から司祭階級や帝国、迫害される異端派の世界が展開されていく。 旅の先々で出会う人間の描写では、見た目や土地ではなく、まず何語を話すかというところに印象をつけている。 あとがきの対談で篠田氏が「ヨーロッパが総一体であり同時に無数に分割され区分化された小国の集合体であった…」と書いてあるとおりだ。 契約、解釈、階級でがんじがらめの世界の中で、 そのすべてを拒否し死のみを信じるカタリ派。 政治人の身でありながら異端派の尊厳を憂う騎士。 あたりかまわず壮烈に生きるアイシャ。 どこにも属さない路上の人ヨナ。 彼らの中で、立場も思想もがんじがらめだった騎士の存在が目立った。貴族階級特有の甘さも垣間見えるが、 「私はただ生きることに賛成したいのだ」という台詞は、なんて切ない希望なんだろう。それこそが信仰のおこりの火だったはずだ。 国家は無国家への克服として生まれ、宗教は国家の克服として生まれた。どちらも人の尊厳に回帰するための革命運動だった。普遍という革命だ。 だから、人の尊厳を奪うのはいつも、国家ではなく、宗教でもなく、不寛容なのだと思う。
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全集8の掲載で、聖者の行進、マルセローナにて、航西日誌、戯曲が収めれている。路上の人ということで、宗教をめぐる人々の関係がわかる。
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『何故なら、笑いは他に対する批評であり、自己評価でもありうるからである』-『第二章 路上の人』 『禁欲主義は必ずしも道徳を生む所以ではない。純粋はつねに両刃の剣であり、純粋と狂言は背中あわせである』-『第七章 苦難のトゥルーズへ』 キリストの笑い、アリストテレスの失われた喜劇...
『何故なら、笑いは他に対する批評であり、自己評価でもありうるからである』-『第二章 路上の人』 『禁欲主義は必ずしも道徳を生む所以ではない。純粋はつねに両刃の剣であり、純粋と狂言は背中あわせである』-『第七章 苦難のトゥルーズへ』 キリストの笑い、アリストテレスの失われた喜劇論、そして閉ざされた図書館。旅するフランチェスコ会の僧とそれに付き従うもの。そこまで揃っていればどうしてもエーコの「薔薇の名前」を思い起こさずにいることはできなくなるだろう。そう気付くと堀田善衞の「路上の人」から逆に「薔薇の名前」の一つの読みを教わることになる。これは詰まるところ多様性に対する不寛容の物語である、ということだ。 エーコがどこまでローマカソリックの教義に対する批判を意図していたのかは「薔薇の名前」を読んだだけでは理解できなかったけれども、第二次世界大戦を挟んでのイタリアの政治体制の転向を体験したエーコであることを思えば、一方的な真理、というもの(そしてその様式こそがまさにカソリック(普遍的)という言葉の裏返しの意味)に対する疑義はもちろんあっただろうとも想像できる。但し、エーコはやはり「内部」の人であるのに対して、キリスト教そのものに対してやや距離感のある視点を持つ堀田は「外部」の人として疑義に容赦がない。エーコの薔薇の名前において記録者であり付き従うものである修行僧はやがて僧侶となるが、堀田の路上の人において同じ役目を果たすものは常に外に留まる。 例えば、現代の(13世紀の)ローマにイエス・キリストが再臨されたらメシアであるイエスに教皇は教えを乞う立場であろうか、という問いに対して司教たちは「ペトロの後継者(ローマ教皇)と使徒の後継者たち(司教)によって治められる唯一、聖、カトリック、使徒的な教会」は自分たちの方が「より正統である」という立場をとるであろうという逸話を入れるところなどに、堀田の批判的な視点は表れているようにも見える。かといってそれはカソリック教会に対する批判に留まらず、フランチェスコ会、ドミニコ会へも同じ視線が注がれている。その視線が批判するもの、それはすなわち排他的な教条である。朱に交わる前に存在していた健全な精神も、頂点にあるものによって「正統性」が認められた途端に朱に交わりおぞましい教条主義を新たに生む。ならば交わることを拒絶し信仰の原点を維持することが良いのかといえば、それは逆方向の排他思想を生む原理主義の元となる。 堀田が仕向けたそのジレンマに思い至れば、この物語を13世紀の啓蒙以前の人々による過去の逸話と簡単に受け取ってしまうことが如何に困難かが解る。如何に科学的進歩が旧世界的神話の非現実性を明らかにしたところで、それは我々の倫理的な優位性を担保することはない。過去の人々の行動を無知的と決めつけ、文字通り笑い飛ばすことなどできる立場に我々現代人も、また、ない。自らの立場の正統性を主張し、彼我の違いを強調し色分け、そして不都合があれば異端として排斥する。この行動パターンは人間に深く染み着いている様式であることを思い知るのみである。 なぜ人は教条主義的に陥りがちなのか。堀田が路上の人で13世紀の物語として描いたテーマはむしろ非常に現代的な問題だ。温故知新という言葉がいつも意味あることばとして響くことが示すように、人はどうやら進歩することの適わない生物なのかも知れない。
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