- 中古
- 書籍
- 書籍
どこにいたってフツウの生活 トウキョウ→トリノ→アンティーブ CG books
定価 ¥1,320
770円 定価より550円(41%)おトク
獲得ポイント7P
在庫なし
発送時期 1~5日以内に発送
商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 二玄社/ |
発売年月日 | 2003/05/01 |
JAN | 9784544043402 |
- 書籍
- 書籍
どこにいたってフツウの生活
商品が入荷した店舗:0店
店頭で購入可能な商品の入荷情報となります
ご来店の際には売り切れの場合もございます
オンラインストア上の価格と店頭価格は異なります
お電話やお問い合わせフォームでの在庫確認、お客様宅への発送やお取り置き・お取り寄せは行っておりません
どこにいたってフツウの生活
¥770
在庫なし
商品レビュー
4
1件のお客様レビュー
唯一そこにだけ蔵書されているというのをWeb検索で知り、世田谷区立鎌田図書館まででかけた。車で乗り付けた砧公園近くのそこは初めての場所だった。 ようやく借りられたその一冊は、「失敗した」と、思うほどに軽いノリの本だった。私は今、須賀敦子の著作を読み耽っていて、ついに須賀さ...
唯一そこにだけ蔵書されているというのをWeb検索で知り、世田谷区立鎌田図書館まででかけた。車で乗り付けた砧公園近くのそこは初めての場所だった。 ようやく借りられたその一冊は、「失敗した」と、思うほどに軽いノリの本だった。私は今、須賀敦子の著作を読み耽っていて、ついに須賀さんについて書いている他の人の本も片っ端から読むに至っている(他人さまから見たらあきれたのめり込み方である)。特に、早逝した須賀さんと生前交流があった人が、直に会った時、彼女と何を話し、そして何を感じたのか、そういう記述のある本を金鉱掘りのように探し求めて読んでいる。 例えば、須賀さんから「セキカワ」と呼び捨てにされるほど親しまれた作家の関川夏央 は、ある新聞社の書評委員会が終わり彼女と新聞社の社屋を一緒に出た時の彼女の何気ない一言を述懐している。送迎のための黒塗り、しかも新聞社の社旗付きのハイヤーを見て須賀さんは乗るのを拒んだ。 「ああいうものに平気で乗るセンスとずっと戦ってきたよね」 と彼女は言ったという。温厚で知性に溢れ、しかも静かな須賀敦子の文章に惚れこんでいる私は、その静かさの奥底に潜んだ強い意思を見出して完全に痺れてしまう。 で、この一冊なのだが、鎌倉生まれのお嬢さん(といってもウチの家内とおない年)が、 NAVIという自動車雑誌の記者やCGTVという番組のキャスターなどを経て単身イタリアに渡り、やがて家庭をもち南仏に定住するに至るまでに縷々記されたエッセイ集である。 テンポよく軽妙な語り口が小気味よい。 例えば取材の一環で一年間ミニ(ミニクーパーという英国製の個性的でかわいいクルマです。くどいですがクルマに詳しくない人のために念のため)に長期試乗を命じられたときの嬉しさをこう記している。 「『やってみます』と俯きかげんに答えながら、頭はすでにミニに乗るギャル(アタシのことだ)が出来上がっていた。思わずヨダレがたれた、というのは冗談じゃない」 万事こんなノリのいい調子の書き方で、荘重で静謐な空気が漂うような須賀敦子の文体とはあまりに隔たりが大きくて、読み始めるなり「失敗した」と後悔した。 だが人を見かけで判断してはいけない。文章も見かけで決め付けちゃいけない。 「須賀敦子さんとの出会い」という2ページ半ばかりの章があった。それが目的だったのだから当然読んだ。 イタリア語で500のことをチンクエチャントというらしい。この本の著者である松本さんと須賀さんの出会うきっかけは、「チンクチェント」と本国イタリアでは呼び慣らわされている車であった。ミラノ在住中に『ミラノ霧の風景』を読んで感銘を受け、須賀さんに強く憧れていた葉山さんは、幾つものツテを頼って「須賀さんに会いたい」と求め続けたが、すでに多忙な有名作家になっていた須賀さんとの面会はなかなか叶わなかった。 「チンクエチェントの絵がついた本を書いている松本さんでしょ、会ってもいいわ」 ミラノで同型車に乗っていた須賀さんは、面会が実現した時そう言ったという。 須賀敦子マニアを自認するもののイタリア語には全く疎い私は、『コルシア書店の仲間たち』や『ヴェネチアの宿』とかの著作にたびたび登場する須賀さん夫婦の愛車「フィアット500」の車名の読み方が「ふぃあっと“ごひゃく”」ではなくて「チンクエチェント」 であることを初めて知って驚いた。 フィアット500は、戦後すぐの貧しいイタリア庶民が、スクーターからようやく買い換えたような日本でいうならスバル360のような大衆車だ。須賀夫妻はそれさえ容易には買えず、ようやくぼろの中古を手に入れたというようなエピソードも確かあった。 その事に気づいてからよくよく読みなおしてみると、この本というかこの著者は、軽妙すぎる文体とは裏腹に透徹した自己観察眼といえる「もう一人のワタシをみるわたし」をしっかり持っていることに気づく。例えば「ミニに乗るギャル(アタシのことだ)」のカッコの中は、自分を揶揄して茶かすもう一人の自分にほかならない。これは、カトリックとクルマ、荘重な文を書く随筆家と軽妙な語り口の編集記者という相違はあるが、二人の間に通底する文章の魅力ではないだろうか。 昨年旅先のパリで見かけてからフィアット500の新型が今私の一番のお気に入りの車なのだが、これからは「私のオキニは“チンクエチェント”です」と、噛まないで言えるように練習しなきゃね。
Posted by