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家庭の医学
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家庭の医学

レベッカ・ブラウン(著者), 柴田元幸(訳者)

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家庭の医学

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 朝日新聞社/
発売年月日 2002/10/11
JAN 9784022577986

家庭の医学

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商品レビュー

4.4

11件のお客様レビュー

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2024/06/15

まずは文章の素晴らしさを語りたい。 短い文章を連ねていくスタイルは、リズミカルなのに滑らか。 見た、聞いた、行動したことをそのまま並べたようでいて、緩急が効いて凛とした品を感じさせてくれる。もちろん翻訳されたときの配慮も行き届いているからなのだろう。 時間的に距離を置いて振り返...

まずは文章の素晴らしさを語りたい。 短い文章を連ねていくスタイルは、リズミカルなのに滑らか。 見た、聞いた、行動したことをそのまま並べたようでいて、緩急が効いて凛とした品を感じさせてくれる。もちろん翻訳されたときの配慮も行き届いているからなのだろう。 時間的に距離を置いて振り返った回想録として、母の看取りの日々を抑制された言葉にて書き記しながら、同時にその日その時の緊張感や心の揺れがダイレクトに差し出される。病の進行を間近で報告されているかのような臨場感がある。 ブラウン家のメンバーによる献身的な看護や深い愛情の捧げ方には心から敬意を払いつつも、自分だったら…などいろいろな思いもよぎる。 しかし、本書の素晴らしさは、他者からの共感や連帯を求めていないところだろう。 レベッカ・ブラウンは誰かに家族の打ち明け話をしたいわけじゃない。悲しみを共有したいのでもない。文筆家として、死に対峙したときに感じたことを、そして何度も何度も反芻してきたことを、書き留めておきたかったに違いない。 モネが死の床のカミーユを描いたように。 冷静な筆致で、限りない慈しみを滲ませて。

Posted by ブクログ

2021/05/04

ーーいまふり返ってみて、母が徐々に死んでいく姿がやっと見えてくる。ふり返ってみるなかで、母は何度も何度も死ぬ。(p.30) 肉親、しかも母子家庭における母の死。看取る中で膨大な感情が湧き出ているはず。けれど、筆致は極めて抑えられ、ページ数にしてたった119ページ。淡々と事態は進...

ーーいまふり返ってみて、母が徐々に死んでいく姿がやっと見えてくる。ふり返ってみるなかで、母は何度も何度も死ぬ。(p.30) 肉親、しかも母子家庭における母の死。看取る中で膨大な感情が湧き出ているはず。けれど、筆致は極めて抑えられ、ページ数にしてたった119ページ。淡々と事態は進む。 けれど、そういうものだったかもしれない。目の前で起こる(あるいは想起される)受け止めきれない事態に対して、たとえ感情は湧き出ていたとしても、言葉の形はとりにくかったかもしれない。何度も何度もシーンをなぞる中で、それは徐々に「言葉」という説明の殻を纏っていったかもしれない。事後的に、それは「事実」として再構成されていたのかもしれない。 断定はできない。いつだって二人称の死は極めて個人的な体験なのだから。

Posted by ブクログ

2015/12/28

いわゆる「家庭の医学」のように要所に「見出し」が入っており、その語句の意味が書かれているために、短篇のペースで読める連作。 扱われている問題が問題なだけに軽い調子で語りたくはないけれど、それでもあらすじにもあるように物語の内容を簡潔に言ってしまえば「末期がんになった母を看取ると...

いわゆる「家庭の医学」のように要所に「見出し」が入っており、その語句の意味が書かれているために、短篇のペースで読める連作。 扱われている問題が問題なだけに軽い調子で語りたくはないけれど、それでもあらすじにもあるように物語の内容を簡潔に言ってしまえば「末期がんになった母を看取るということ」であり、それ以上でも以下でもない、といえば、ない。乱暴に言ってしまえば「よくある話」と読むことはいくらでも出来てしまう。「余計」なものは一切なく、徹底して末期がんの母に関わるところから視点を動かさないからだ。 その「よくある話」にみえるということをどう考えるか、がこの話の大切なところだと思う。たとえば、定期的に日本のテレビドラマ、映画、ドキュメンタリーなどでもがん患者とその家族の姿は題材として扱われるし、それと同じようなものだ、と大枠で捉えること。たとえば、がんとの闘いの当事者や身内として同情したり反発したりすること。読書に正しいも間違っているも無い、と思っているから、基本的には本が読者の元に届いた時点でその物語は読者のものになったらよいと思っているから、「こう読むべき」なんてことは言いたくない。だけど、この話に限っていえば、少し慎重になった方がよいのではないかと思う。 私にはちょうど今、身内にがん患者がいる。たまにそのさまを他人に話す機会がある。遡れば、私が幼く記憶にない頃には祖父ががんと闘い、その末に亡くなった。その話は母から何度も聞かされている。いずれにしても、その闘病話を他人に語るとなったら、つまるところ「家庭の医学」と同じような内容になるのではないかと思う。あるいは、他人の耳に残る情報は「家庭の医学」程度のものになるのではないかと思う。いわゆる起承転結に話を要約してしまえばそういうことになるのだと思う。同じ病気になった者が辿るものはある程度似通うもので、何か所か分かれ目があって、そこで多少話の内容が異なってきて、でも人である以上いつかは死ぬ。ある意味「みんな同じ」「みんな平等」という感じだ。だけど、人間一人一人の人生はどれも唯一無二のものであるはずだし、だからそれぞれの物語も唯一無二であるはずだ。つまり、大枠の話が語られるだけで他人が「分かる」ことなんてあってはならない。語りの聞き手は、真摯に想像力を働かせることが必要だし、それでどれだけ話の芯に近付けたつもりになっても決して本当の話に触れられたとは思ってはいけない。特に悲しみや苦しみに関する話についてはそうだと思う。似たような悲哀は沢山あるだろうけれど、どれも異なっていて同じものはそうないと思う。だから、「よくある話」にみえるものほど丁寧に目を凝らして耳を済まして感じないと大事なものを受け取り逃してしまいそうな気がする。それが語りの聞き手に求められる姿勢だと思う。 ただ、この話から感じられる寂しさ、というのか不気味さというのか、というのも心に残ってしまう。個人が匿名になった途端ありきたりな存在になってしまうような感じが出ていて、どうも怖いのだ。ゲスの極み乙女。の「私以外私じゃないの」じゃないけれど。サカナクションの「アイデンティティがなああああい」じゃないけれど。「私とは何者なのか」よく分からなくなってしまう事態やその問いかけへの確固たる解答を見いだせないのが現代人の抱える重大な問題の一つだという。自分という存在は簡単により大きな枠に溶け込んでしまうもののように思われることがある。「そうじゃない」と自分個人のことを語るということを行うものの、その語りの内容すら一定の型にはまってしまうこともある。「家庭の医学」の独特の描き方はそういった問題も踏まえているように思う。 グダグダと頭に浮かんだものを綴ってみたが、「要するに」な話は柴田さんのあとがきに書いてある。翻訳家は多くの場合その作品を強烈に愛している人だから(であって欲しいから)、そんな人が書く訳者あとがきの内容は大体素晴らしいのだけど、本作のあとがきは個人的に特別好きだ。こういうことを書ける人になりたい、と心底思わされた。

Posted by ブクログ

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