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「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典を読む
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「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典を読む

カールビンディング(著者), アルフレートホッヘ(著者), 森下直貴(訳者), 佐野誠(訳者)

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「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典を読む

定価 ¥1,980

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 窓社
発売年月日 2001/11/26
JAN 9784896250367

「生きるに値しない命」とは誰のことか

¥1,870

商品レビュー

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2022/11/14

 カール・ビンディングは難渋な法学用語を駆使して知的障害者の安楽死を正当化しようとしていた。  アルフレート・ホッヘは露骨に「お荷物」「精神的に死せるもの」などと蔑視を隠さず不快であった。  批判的評注1および2もなかなかに何回で読了直後の今はこの程度を書くのが精一杯であるか...

 カール・ビンディングは難渋な法学用語を駆使して知的障害者の安楽死を正当化しようとしていた。  アルフレート・ホッヘは露骨に「お荷物」「精神的に死せるもの」などと蔑視を隠さず不快であった。  批判的評注1および2もなかなかに何回で読了直後の今はこの程度を書くのが精一杯であるから後日大葉に加筆・訂正した評価と感想を書くことになるかもしれない。  (2022年11月14日【月】記) 

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2016/12/05

人類はこれまで誤謬によって膨大な数の家族を失っているから、一人ぐらいの死は現実にはほとんど重みをもたないのである。 数の問題ではない。自分の家族にも同じことが言えるか。暴言。 所謂、安楽死についての記述は、理解できる部分もあるが、重度精神障害者に対しての物言い、生きていることで家...

人類はこれまで誤謬によって膨大な数の家族を失っているから、一人ぐらいの死は現実にはほとんど重みをもたないのである。 数の問題ではない。自分の家族にも同じことが言えるか。暴言。 所謂、安楽死についての記述は、理解できる部分もあるが、重度精神障害者に対しての物言い、生きていることで家族、国家に重荷になる、生を存続させる価値がない、精神的な絆が成り立つことは決してないなど、偏見に満ちた人とは思えぬ考えである。吐き気を催す。これを真面目に書いているのかと思うと、著者の精神を疑ってしまう。 経済的に重荷になるから無価値だという資本主義的価値観だけで命を判断するようなことになれば、人間を他の動物たちとは違うものとしている倫理の欠如ということにならないか。人間を人間たらしめしているものは何か。お金を稼ぐ、貨幣経済を営んでいるということなのか。 生きるに値しない命とは、この人たちの理論で言えば、時代背景、政治、条件によっていかようにもなるようである。自分にとって無益だと思う人間を殺していいということになれば、無能な政治家、うだつの上がらない上司、誰でも生きるに値しない命になりうる。そんな馬鹿なことありえない。 人の命に優劣はなく、優劣をつけるべき人間もこの世には存在しない。 そんな当たり前のことを、どんな状況になっても忘れないでいる、ということが歴史を知る私たちにできること。こんな当たり前の倫理観が忘れられた時代があった。自分はどんな時代に生まれようとも人としての倫理観を捨てずにいられたらと願う。

Posted by ブクログ

2016/05/10

第一次世界大戦後のドイツで発表された「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」は、後にナチスドイツの障害者安楽死プログラム、そして優性政策に大きな影響を与えたといわれている。 本書は、法学者カール=ビンディングと医師アルフレート=ホッヘの手によるその小論文と、それに対する評論...

第一次世界大戦後のドイツで発表された「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」は、後にナチスドイツの障害者安楽死プログラム、そして優性政策に大きな影響を与えたといわれている。 本書は、法学者カール=ビンディングと医師アルフレート=ホッヘの手によるその小論文と、それに対する評論的訳注2編で構成されている。 本書はまず、自死を含め人が人を殺害することの定義づけと、それが不道徳行為であっても違法なものでない例を考察する。 それは、いまでも国によって判断が異なる選択的安楽死について、その選択の自由が許されるかどうかの判断を試みる。 現実に、いまも治療の見込みがなく強烈な痛み等を伴う病気については、制度として認めている国がある。 また、病気や事故により、いわゆる植物状態になった人間について、その生命の牢獄から解き放つ意味での安楽死を意義付ける。そして、その安楽死も認められるべきだろうと考える。 ただし、特に後者については第一次世界大戦後のドイツが置かれた、非常に経済状況が厳しい状況の中、植物状態の人間を生存させ続けることにかかる費用と消費される人的資源を、より現実の生産に振り替えるべきであるという裏の意味が込められている。 さらに、植物状態と同じく、自分の意思を示すことができない白痴(原文ママ)については、そもそも自分が生きているという意義を認識できないと判断されるので、植物状態の人間と同じく国が安楽死を行っても、違法性はないとの考えを示す。 続く2編の標註では、この思想がどのように生まれ、利用されたか。そして生きている価値とは何かということについて、現代の視点からより深く考察される。 これは、ナチスのとんでも理論だ、いまと別の次元の話だと一笑に付してよい問題なのだろうか? 直接的に考えれば、出生前診断により中絶を選択するということはどういうことなのか?と考えるひとつのきっかけにはなると思う。 また、経済優先で、たとえ安楽死という手段は採らないまでも、地震等で被災者に義捐金が支払われたことにより、生活保護が打ち切られ、その結果として....ということであれば、それは経済優先で命を決めていることにならないだろうか? さらに、「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」が書かれた時点の医学では、植物状態であるとか精神異常であると判断された命が、現代の医療技術では本人の意思や精神活動が認められる状態であったかもしれないという疑念もわいてきた。となれば、現在の医療技術の下で行われる脳死判定を根拠として行われる脳死移植は、将来の医療技術の下では合法的殺害にあたると判断されることもあり得るのではないだろうか?

Posted by ブクログ

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