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小説、時にはそのほかの本も
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 晶文社/ |
発売年月日 | 2001/12/17 |
JAN | 9784794965110 |
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小説、時にはそのほかの本も
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川本三郎の良さと悪さは、多分彼が「あられもなく」対象にのめり込んで我を忘れることがないその清潔感というか潔白な性格なのではないかと思う。それはアスリートが持つストイシズムにも似ていて、それが面白いともつまらないとも言えるのだった。もちろんこれは好みの問題になる。この書評集でも彼は...
川本三郎の良さと悪さは、多分彼が「あられもなく」対象にのめり込んで我を忘れることがないその清潔感というか潔白な性格なのではないかと思う。それはアスリートが持つストイシズムにも似ていて、それが面白いともつまらないとも言えるのだった。もちろんこれは好みの問題になる。この書評集でも彼は対象と測ったようにきちんと距離を置き、その距離から対象を語り主に褒めちぎる。好ましい印象を残すし心地よく読めるのだが、こちらの心を鷲掴みにする迫力はない。もっとも、そんな「迫力」をこの著者に求めるのはお門違いでもあるはずなので辛い
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「まえがき」にこうある。「批評とは、本を味わい楽しむことだと思う。本の良し悪しを、高いところから論じたり、辛口批評と評して本をあしざまに批判したりすることが批評の仕事とは、とても思えない。」自分でも、これではちょっとまずいと感じたのだろう。つけ加えて「といって、甘口だなどと思って...
「まえがき」にこうある。「批評とは、本を味わい楽しむことだと思う。本の良し悪しを、高いところから論じたり、辛口批評と評して本をあしざまに批判したりすることが批評の仕事とは、とても思えない。」自分でも、これではちょっとまずいと感じたのだろう。つけ加えて「といって、甘口だなどと思ってもらっては困る。どの本が好きかについては頑固な好みを持っている」と但し書きがつく。 「あとがき」にはこうある。「小説の面白さは、我を忘れるか、身につまされるかだといったのは平野謙だったか。いずれにせよ、感動させてくれる小説、もっといってしまえば泣かせてくれる小説がいい」と。小泉首相でもあるまい。文芸批評家が「感動した」では、身も蓋もなかろう。何に感動するかは人によって様々である。小説を手にとる人が皆、泣きたいと思っている泣き虫ばかりではあるまい。人がなぜそこで感動するのか、それを知りたくて批評を読む者もいるのだ。 批評とは、どこまで行っても自分と本との間に成立する緊張感に充ちた出会いであるしかない。その意味では、批評の対象として自分の感動した作品を選ぶのはもっともなことだと思う。問題はそこからのことである。その作品に感動している自分を冷静に見つめる眼があれば、作品の評価は自ずと定まる。しかし、感動している自分の感情を敷衍し、自分が感動しているのだから誰しも感動するはず、などと考えるのは不遜の誹りを免れないだろう。 揚げ足取りをしたいわけではない。本の中で論じられている多くの作品についての文章は、平明でいて、著者ならではの目配りが感じられる。特に一章を割いた大江健三郎についての数編の批評は、近頃では語られることの少ない『芽むしり仔撃ち』等初期の作品について触れながら、大江の中にある「少年」性についての指摘が新鮮である。「寄り添って」読む批評家ならではの批評と言ってもよいだろう。 それだけに、対象との距離がない分、どこまでが作品から来る感興で、どこからが著者の中から出てきた感慨か不分明になる。黒子に徹し、「いっそ『私』という主語など消し去った文章を書いていきたい」という著者であるが、歌舞伎の黒子ではなく、文楽の人形遣いのように、作家と一体になって熱っぽく動く川本三郎の姿が、文章から見えてくるのである。 川本三郎には、そんな自分が見えているのだろうか。それとも、そんなことは考えもしないで、ひたすら自分の好きな本について語るだけなのだろうか。この本を読んでいると、どうやら後者のように思えてくる。「評論家は対象となる作品の黒子に徹したいと思う。」と、まえがきでは批評であったものがあとがきでは評論になっているほど自分の文章に対して無自覚なのだから。 作品や作家をだしにして自分を語る批評は小林秀雄で終わったものと思い込んでいた。いや、小林の場合自覚して自分を語っていたのだからこれは確信犯である。川本三郎には、どうやらその自覚はないらしい。「『泣かせる』とか『感動』を大事にしたいのは、これまで文芸批評と同時に映画批評を書いてきたからかも知れない」と書かれては、映画批評家でなくとも言葉を失ってしまう。 映画に限らず、やたらと感動を強調する風潮が広がっている。何気ない市井の生活の中にたゆたう、つつましやかな感情は、「感動」と呼ばれるものではないだろうし、「泣ける」ようなものでもないかもしれない。しかし、よく見る眼さえあれば、見えるし、感じる力があれば感じられるはずである。批評とは、そういう眼を育て、感じる力を養うのに役立つものであってほしい。川本三郎は、そういう眼を持っていると思う。安易に「感動」だの「泣かせる」だのという言葉で、自分の見つけてきたものを語らない方がいい。
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