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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 岩波書店/ |
発売年月日 | 2001/03/07 |
JAN | 9784000223683 |
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商品レビュー
4.7
3件のお客様レビュー
これは、いい。 話題作から遡って何作か読んでいるが、本書はエッセイ、詩論、小説とさまざま。 この集合体が収束したものが彼女の詩なのだろうと思える。魅力的だ。 詩論としては『私の領域』が面白かった。『いくつかの官能的なこと』はその後の小説に受け継がれていく。『小名木川』...
これは、いい。 話題作から遡って何作か読んでいるが、本書はエッセイ、詩論、小説とさまざま。 この集合体が収束したものが彼女の詩なのだろうと思える。魅力的だ。 詩論としては『私の領域』が面白かった。『いくつかの官能的なこと』はその後の小説に受け継がれていく。『小名木川』はまさに詩人の紡ぐ文章だ。 表紙絵も素敵。 作成日時 2007年12月16日 17:57
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エッセイ集。「私たちは、現在という一点に、いつも自分を投げ出すことしかできなくて、未来の時間のために、現在を使うということに耐えられないのではないか。それは現在をからっぽにすることだから。別の言い方をすれば、未来も過去もなく、あるのは現在だけ。その現在という一点に、生も死も、なに...
エッセイ集。「私たちは、現在という一点に、いつも自分を投げ出すことしかできなくて、未来の時間のために、現在を使うということに耐えられないのではないか。それは現在をからっぽにすることだから。別の言い方をすれば、未来も過去もなく、あるのは現在だけ。その現在という一点に、生も死も、なにもかもがある。すべてが、いつも本番ということになる」 この著者の時間への考察は味わい深い。詩というものについても、平明なコトバで教えてくれる。ゆっくり読んでいる。
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小池昌代は詩人である。けれど、最初に彼女の書いたものに触れた時、自分は小池昌代を詩人としては意識していなかった。そうであるにも拘わらず彼女の文章はどこか凛とした雰囲気を感じさせたので、彼女が詩人であると知って直に首肯した。その時読んだ彼女の文章は詩ではなかったし、この本も詩集では...
小池昌代は詩人である。けれど、最初に彼女の書いたものに触れた時、自分は小池昌代を詩人としては意識していなかった。そうであるにも拘わらず彼女の文章はどこか凛とした雰囲気を感じさせたので、彼女が詩人であると知って直に首肯した。その時読んだ彼女の文章は詩ではなかったし、この本も詩集ではない。しかし、詩人らしい端正な文章を読んでいると、何か単にエッセイと呼ぶよりも散文と呼ぶのが相応しいと思ってしまう。一文字一文字大切に読まなければならないという気にさせる文章に時々出会うけれど、小池昌代の文章はまさにそのような文章である。 小池昌代の文体のどこがそんなによいのか。これは多分に個人的な感覚のものであるので一般的な主張ではないけれど、その佇まいがよい。よい、というか、信頼できる、という感じだ。好きだから信頼がおける、というものでもない。例えば、乱暴に括ってしまうと、瀬尾まいこや柴崎友香、といった作家は好きだけれども信頼ということとは少しことなる。彼女らの書くものが気に入っていても、その佇まいに共感できるかというと疑問が残る。そこには生まれ育った環境の違いがどうしてもあると思うし、その文体の中に残るマザー・タンの違いが拭い去り難く残っている。柴崎友香の会話文が関西弁で書かれている意図も解る気がするし、そのニュアンスは伝わって来る気がするけれど、そこにはどこかしらもどかしさもあって、例えば、洋楽の歌を聞いている時のような捕らえ所の無さも常に感じてしまう。逆の例であげられるのは川上弘美だ。川上弘美の書いている文章は文体としても気に入っているし、彼女の視線に自分が寄せる思いは、間違いなく共感というところに端を発しているのだと思う。一文字一文字丁寧に川上弘美の書くものを読んでいる時、たとえそれが幻想であると頭では理解していても、彼女の描いているものが100%、脳の間を越えて伝達されてくるような気になる。そして、小池昌代の書くものにもそれと同質の共鳴を覚えるのだ。その共感からくる信頼。同じものも見て同じように感じられる、という安心感。もちろん、そんなものは幻想だと言ってしまえばそれまでではあるが。 小池昌代を最初に「見た」のは購読している雑誌においてである。その雑誌に書斎の特集があって、小池昌代も特集される側の一人として登場していた。小ぢんまりした和室の中に、座して向かう書机があって、天井からは裸電球の上に小さな傘の付いた照明器具が下がっている。その書机に向かって小池昌代はカメラの方を向いていた。その佇まいに最初から惹かれた。裸電球一つが点いている和室に脚を折ることができる丸卓がある。その風景を流れる時間は、自分にとってもかつて確かに存在していた時間であり、いまでもその部屋の匂いと共に思い出さすことができる風景だ。そうだ、そんな風景はそこら中に溢れていたのだ。かつては。しかし今となっては、敢えて求めなければその風景は手に入らない。そんな敢えて求める不自由さの風景の中に佇む小池昌代に惹かれた。 このエッセイ集の中には、切り取られた情景について書いたものと、自身の思考について見つめた様子を書いたものがある。前者は既に書いたようにどこかしら散文に繋がる雰囲気がある。もちろん、そこに、すぅと吸い込まれて行くような心持ちからして、その文章を気に入っているのが自覚される。けれど、実は、後者の少し理屈っぽい感じもまたよい。自分がどこに行くかなんて誰にも解らない、と言い切りながらも、現在地点はしっかりと見下ろしている。自分がここから先どんなことを考えるか、ということについて、いつでも今ある場所から考えていける。そういうぶれたところの無い感じが伝わってくる。もちろん、自分が感じていると思っていることの内、どれだけが本当に自分が考えたものであるのかは不明だし、知らない内に染み込んでしまっている他人からのインプットというものもあるだろう。それを潔く削ぎ落とす。その研ぎ澄まされたような佇まいが小池昌代の特徴であるように思う。 他人からのインプットということを考えはじめると、そしてその影響を受けまいとすると、生活もミニマルなものへと移らざるをえないだろう。この本の中で彼女の結婚生活について語られた短い文章が幾つか登場するが、詩のためにひたすらに自分自身を眺めようとする余り、他人との共同生活に支障を来してしまう様が垣間見えてしまった。その行き着いた先があの書斎なのだな、と思うとその凛々しさがただならぬものであると理解され、少し恐くなる。あまり迂闊に共感する等と言えなくなるような気になってくる。しかし、多分、今暫く小池昌代を追いかけるのだろう。恐らく、その詩集も手に取るだろう。そのことは自分自身の感覚として確かなことであると思えるのだ。
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