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不穏の書、断章
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 思潮社 |
発売年月日 | 2000/11/01 |
JAN | 9784783724360 |
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不穏の書、断章
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商品レビュー
4.7
12件のお客様レビュー
貿易会社に勤めながら膨大な文章を書き溜めたポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアが、自らの分身ベルナルド・ソアレスに仮託して綴ったライフワーク的な作品の抄訳。 『不穏の書』はペソアの死後にトランクから原稿が発見されたので、決定稿が存在しないらしい。そんなわけで、本書は訳者編集に...
貿易会社に勤めながら膨大な文章を書き溜めたポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアが、自らの分身ベルナルド・ソアレスに仮託して綴ったライフワーク的な作品の抄訳。 『不穏の書』はペソアの死後にトランクから原稿が発見されたので、決定稿が存在しないらしい。そんなわけで、本書は訳者編集によるその一部と、ほかの書き物から抜粋してきた断章からなる、断章の断章といったていの一冊である。 ペソアは書くためにたくさんの分身を持っていた。ベルナルド・ソアレスはなかでもペソアと非常に近いパーソナリティを持った一人で、会社の社長を自分と対極の人間と位置づけながら、ペシミスティックな人生についての洞察を日々書き連ねる。仕事はしているが、かなりメルヴィルの「バートルビー」的な人である。貿易会社の商品である織物や出納帳、旅行パンフレットなどをとっかかりに日常と哲学的考察が入り乱れる短い断章の連なりは、ウィトゲンシュタイン風の20世紀日記文学という感じで意外と入っていきやすい。 ソアレス(ペソア)はいつも自分という存在のゆらぎに目を向け、アイデンティティなどは実際にはどこにもない空虚なものだとくり返し書く。だからこそ、人は同時に全く異なる別々のものになることができるのだと。一隻の船であると同時に、一冊の本の一ページであること。異なる宇宙の別々の王国の二人の王であること。そう夢みることをソアレスは自らに課す。一人の人間のなかには行動する人と夢みるひと、二人が生きていて、二人の人間が上手くやるには四人分の人間関係が発生する、そんなのやってられない、というくだりに納得するし共感した。しかもペソアのなかには「夢みるひと」が何十人も息づいていたのである。 ペソアはこうして、物語を書くのではなく、書く人たちの人生を無数に作り上げた。ひたすら孤独について書き連ねながら、何十人分も生き、劇場のような人生を夢みた。ペソア的な人、ペソア的な孤独は、みんなが何かしらを書くようになった今、すでに普遍性を持っていると思う。だが、単にペルソナを切り替えるというだけではなく、常に〈自分〉の向こう側に行こうとする者だけが辿り着く、狂気と芸術の世界がきっとあるのだろう。「詩人とは、つねに自分ができることの彼方へと向かう者のことだ」。
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「生きること、それは他人であることだ。感覚することは、昨日と同じように今日も感覚するから可能なのだ。だが、昨日と同じことを感覚することは、感覚ではない。——それは昨日感じたことを今日思い出すことであり、昨日は生きていたのに、今では失われてしまったなにかの、生きた死体であることだ。...
「生きること、それは他人であることだ。感覚することは、昨日と同じように今日も感覚するから可能なのだ。だが、昨日と同じことを感覚することは、感覚ではない。——それは昨日感じたことを今日思い出すことであり、昨日は生きていたのに、今では失われてしまったなにかの、生きた死体であることだ。 画布に描かれたすべてを次から次へと消して、新しい夜明けごとに感情の永遠の処女として毎回新たな自分を見出すこと——これが、これだけが存在するに値するもの、所有するに値するものだ。不完全な自分から、完全な自分になるために。」 ・ 「嗅覚は奇妙な視野だ。それが喚起するのは、潜在意識によって突如描かれる感情の風景だ。このことを私はしばしば感じる。路を歩く。私はなにも見ない。というか、まわりを眺めながら、誰もがするようにただ見ているだけだ。私は路を歩いていることを知っているが、この路が、その両脇に建てられたさまざまな家とともに、実在しているということは知らない。私は路を行く。すると、とあるパン屋からパンの香りがしてきて、その甘い香りによって胸がむかつく。突然私の前に、私の少年時代が、どこか遠い街からやってきて、そびえたつ。そして、別の国のパン屋が、私にとってはすべてが亡びてしまった魔法の王国から現われる。私は路を進む。」 ・ 「文学とは、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である。」 ・ 「私とは、わたしとわたし自身とのあいだのこの間である。」 ・ 「真に誰かを愛することはけっしてない。私たちが唯一愛するのはその誰かに関して作りあげた観念だけなのだ。私たちが愛するのは、自分が作りあげた概念であり、結局のところ、それは自分自身なのだ。」
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幾つもの名前を持つフェルナンド・ペソア。ペソアは、ペソアであるが、ベルナルド・ソアレスでもあり、実は私でもあり、あなたでもあり、ペソアも私も知らないどこかの誰かでもある。 この書物は、散策の中で書き継がれた、詩であり、散文であり、哲学書でもある。だから、断章という形をとるしか...
幾つもの名前を持つフェルナンド・ペソア。ペソアは、ペソアであるが、ベルナルド・ソアレスでもあり、実は私でもあり、あなたでもあり、ペソアも私も知らないどこかの誰かでもある。 この書物は、散策の中で書き継がれた、詩であり、散文であり、哲学書でもある。だから、断章という形をとるしかなかった。 その中からの引用 「文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけでは十分でないことの告白である」 「自然であるためには、ときどき不幸である必要がある」 「私はもはや自分のものではない。私は打ち捨てられた博物館に保存された私の断片なのだ」 ペソアの言葉は反芻を促す。 イタリア出身の作家アントニオ・タブッキは、ペソアの詩に魅せられ、ポルトガル語を学び、ポルトガルのリスボンで生涯を閉じる。 山田太一はこの『不穏の書』を枕元に置いているという(『月日の残像』。 加藤典洋も地味な読者であり、その痕跡を求めてリスボンまで行ったという(『考える人』(季刊誌No50)。 私もまた、これから繰り返し読み続けることになりそうだ。
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