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王朝序曲(下) 誰か言う「千家花ならぬはなし」と 角川文庫10296
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王朝序曲(下) 誰か言う「千家花ならぬはなし」と 角川文庫10296

永井路子(著者)

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王朝序曲(下) 誰か言う「千家花ならぬはなし」と 角川文庫10296

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 角川書店
発売年月日 1997/02/21
JAN 9784041372050

王朝序曲(下)

¥495

商品レビュー

4.4

12件のお客様レビュー

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2010/05/28

桓武天皇の死後、新帝…

桓武天皇の死後、新帝となった安殿は次々と新政策を打ち出す。その影にいるのは藤原種継の娘、薬子。冬嗣も次第に政治抗争の渦に巻き込まれていく。

文庫OFF

2023/05/19

「この世をば」「望みしは何ぞ」と合わせて王朝三部作と呼ばれているこの作品、読む順番が前後してしまったけれど、タイトルの通り、まさに王朝時代の幕開け「序曲」。 さすが永井路子さん、とても面白く読めた。 初めは冬嗣と聞いてもピンと来なかった。 冬嗣って誰よ、良房の父と知って、やっと時...

「この世をば」「望みしは何ぞ」と合わせて王朝三部作と呼ばれているこの作品、読む順番が前後してしまったけれど、タイトルの通り、まさに王朝時代の幕開け「序曲」。 さすが永井路子さん、とても面白く読めた。 初めは冬嗣と聞いてもピンと来なかった。 冬嗣って誰よ、良房の父と知って、やっと時代が見えてくる程度の知識だった。 下巻は桓武の譲位から平城天皇、嵯峨天皇へと時代が変わって行く様子が描かれる。 奈良から平安へとすんなりと変わったわけではない。 怨霊に怯え、遷都を繰り返す。 桓武は他戸、井上、早良の祟りに苦しみ、父桓武を嫌っていた平城は結局父と同じ道を辿り伊代、その母吉子の祟りに苦しむ。 因果応報。 そんな時代を乗り越え、嵯峨の時代となる。 人を殺して怨霊を背負い込むことはしたくないと言う姿は、父のような王者たる風格はないが、その平凡で正直な嵯峨が新たな時代を作り出したのも必然だったのかもしれない。 嵯峨を支えた冬嗣もまた、兄真夏ほどの欲があったわけでもない。 目立たず、したたかに。そんな男だったからこそ嵯峨とともに新たな幕開けとなる礎を気付けたのかもしれない。 藤原冬嗣、北家を揺るぎないものにした人物。 決して強欲だったわけではない。したたかという言葉がよく似合うかもしれない。 彼の息子良房の妻は嵯峨天皇の臣籍降下した皇女。そこから、北家の帝に絡みつく時代が始まり、道長、そして摂関政治を終わらせた能信へと繋がる。 三部作と呼ばれる本を通して読んで、王朝の幕開けとなった冬嗣も、終わらせた能信も、時代は違えど時の流れを変えるのは、自分の欲だけでなく一歩引いてしたたかさがあった人物かもしれない。

Posted by ブクログ

2023/01/04

大体この手の本は、途中四苦八苦して読むけれど、これはわかりやすかった。 奈良時代末期〜平安時代へ。教科書で読んだみたいに、 奈良の平城京から長岡京へ、そして京都の平安京へ、すぱっと引っ越しして遷都、平和な平安時代になりました。というわけは全くなくて、紆余曲折、愛憎や権力闘争、色...

大体この手の本は、途中四苦八苦して読むけれど、これはわかりやすかった。 奈良時代末期〜平安時代へ。教科書で読んだみたいに、 奈良の平城京から長岡京へ、そして京都の平安京へ、すぱっと引っ越しして遷都、平和な平安時代になりました。というわけは全くなくて、紆余曲折、愛憎や権力闘争、色々あった、奈良時代末期から平安時代への、つまり、桓武➞平城➞嵯峨天皇の時代の話。 このあと、京の都(王朝)は、鎌倉幕府が開かれるまでの400年間は平安王朝として政治の中心であり続け、また幕末までと考えると約1100年続いた。 感想というよりメモ… 平城太上天皇と薬子は、嵯峨天皇のいる平安京を捨てて、平城京があった奈良に再び遷都すると宣言。藤原冬嗣と坂上田村麻呂に阻止されて、太上天皇は出家、薬子は自死。 源氏物語にも出てくる蔵人頭という役職(ざっくりいうと天皇の秘書みたいな役職)は、810年、平城太上天皇と薬子に対抗するために、嵯峨天皇のもとに作られた律令外の役職……知らなかったー。 (この頃太上天皇は、天皇と同じ権力を持っていた。) その蔵人頭という役職を作って、就いたのは、主人公の藤原冬嗣(藤原北家の藤原内麻呂の次男)。 このあと、蔵人頭は伝奏として力のあるポストとなり、太上天皇の権限は縮小される。(白河院の院政まで)また、太上天皇が勝手に遷都することを防ぐためにその住まいは常に用意された。 嵯峨天皇は、前2代の天皇が怨霊に怯えて生きたのを見ていて、怨霊を怖がって死刑を嫌った。この発想がもとで、その後保元の乱が起こるまでの350年間、日本では死刑が執行されなかった。 また、嵯峨天皇は、薬子の変のあと、政治を藤原冬嗣に任せて子供を作りまくった。で、増えすぎて経済的にも後継争い的にも大変、ということで臣下に降として源さんがいっぱい誕生。➞嵯峨源氏。 奈良時代の律令制やその根幹の班田収授も崩壊しまくり902年廃絶したが、その前から藤原冬嗣らによって実質的な新しい税収体系が作られつつあった。また、お金かかるし平安京造営や蝦夷との戦もやめた。(桓武天皇の蝦夷との戦いについては「火怨」高橋克彦著が面白かった。) ちなみに816年に、空海に高野山を与えたのは嵯峨天皇。

Posted by ブクログ

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