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不死のワンダーランド 戦争の世紀を超えて 講談社学術文庫
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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 講談社/ |
発売年月日 | 1996/07/10 |
JAN | 9784061592407 |
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不死のワンダーランド
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商品レビュー
4.5
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2022年11月「眼横鼻直」 https://www.komazawa-u.ac.jp/facilities/library/plan-special-feature/gannoubichoku/2022/1101-13427.html
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[ 内容 ] 人間にとっての最大の暴力ないし災厄として、不安や恐怖の最後の対象である「死」。 著者は、世界大戦による大量死の時代を背景に登場したハイデガー哲学と、それに続くバタイユ、ブランショ、レヴィナスらの「死」に真正面から向き合った思想を考察する。 さらに「死の抑止」を旨とす...
[ 内容 ] 人間にとっての最大の暴力ないし災厄として、不安や恐怖の最後の対象である「死」。 著者は、世界大戦による大量死の時代を背景に登場したハイデガー哲学と、それに続くバタイユ、ブランショ、レヴィナスらの「死」に真正面から向き合った思想を考察する。 さらに「死の抑止」を旨とする現代医学をも視野に入れ、現代人が直面する未知の状況―「私の死」を死ぬことができぬ状況を的確に照射した画期的論考。 [ 目次 ] 1 「ある」、または「存在」の夜と霧 2 私の不可能性、または公共化する死 3 ハイデガーの褐色のシャツ 4 数と凡庸への否と諾 5 「不安」から「不気味なもの」へ 6 「不死」のワンダーランド [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]
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「死への先駆」が現存在の固有の可能性を開くとハイデガーは考えたが、これは、ヘーゲルの「精神」によって完成された「歴史の終わり」の世界に否定性を持ち込み、世界の「再分割」を要求する〈戦争〉にほかならないのではないだろうか。これに対して、レヴィナス、ブランショ、バタイユらの思想は、主...
「死への先駆」が現存在の固有の可能性を開くとハイデガーは考えたが、これは、ヘーゲルの「精神」によって完成された「歴史の終わり」の世界に否定性を持ち込み、世界の「再分割」を要求する〈戦争〉にほかならないのではないだろうか。これに対して、レヴィナス、ブランショ、バタイユらの思想は、主体の死の不可能性を主張するとともに、そこからハイデガー哲学とは別の可能性を切り開こうとする試みだったと著者は言う。 フッサールは、現象学的還元という操作をおこなうことで、志向性が意識の本質であり、世界と認識主体との関係の可能性はこれによって形作られると主張した。ハイデガーは、フッサールの考える抽象的な意識の志向性の発想を批判して、現存在は世界内に投げ込まれつつみずからの可能性を投企するというあり方をしていると論じた。さらに彼は、自己の死の可能性に向き合うことで、非人称的な「ひと」(das Man)という頽落から脱して、みずからの固有の可能性が開かれると主張する。 一方レヴィナスは、意識の志向性さえもが宙吊りにされるような還元を遂行した。このとき、いまだ無規定で非人称の「ある」(il y a)が否応なくみずからを押し付けてくることになる。志向性が効力を失う「夜」においては、主体としての〈私〉の死は成り立たない。彼は『実存から実存者へ』の中で、こうしたイリヤの夜から実詞転換による〈私〉の成立のプロセスを解き明かすとともに、そこから〈他者〉へ向けての通路を切り開こうとした。 ブランショもまた、こうした「死の不可能性」について論じている。生きている者にとって、〈死〉は自己の究極の可能性のように思える。だが、ひとたび〈死〉の支配権に入ると、〈私〉はすべての可能性を失い、〈死〉をも失いながら、〈死〉の中に消えてゆく。そこではもはや、「死」は自己の可能性ではない。むしろ自己は非人称的な「ひと」の中に消え去ってゆく。ブランショの『文学空間』の主題は、こうした「死の不可能性」にほかならない。「作品」もまた、〈死〉と同様の不可能性を帯びている。作家は、作品の完成を志向するが、それが完成に近づけば近づくほど、書くものは作品に対する支配権を失い、自分を失ってむしろ作品によって作者が書かれることになる。だが、〈死〉は一人では完了しないということは、〈他者〉の介入を待って初めて〈死〉が出来事になりうるということを示している。ここに、ブランショの「明かしえぬ共同体」が開かれることになる。
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