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ユルスナールの靴
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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 河出書房新社/ |
発売年月日 | 1996/10/18 |
JAN | 9784309010977 |
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商品レビュー
4
7件のお客様レビュー
比喩や言葉の選び方がとても心地いい。(サイダーのような波で足を洗う、とか) 一編だけ、どうしても読みにくくて自らの思考の扉を閉ざしながら読んだような頭に入りにくいのがあって、どうしてかと思ったらその絵画も見たことないし(逆にこういう絵ではないかと想像することは出来る)、この話の作...
比喩や言葉の選び方がとても心地いい。(サイダーのような波で足を洗う、とか) 一編だけ、どうしても読みにくくて自らの思考の扉を閉ざしながら読んだような頭に入りにくいのがあって、どうしてかと思ったらその絵画も見たことないし(逆にこういう絵ではないかと想像することは出来る)、この話の作者がその絵画の芸術家を通してユルスナールを語り共感したイメージを話しているからだと気が付く。ユルスナールが遠くなったからだ。
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『時間が満ちていなかった、いや裸なじぶんに向かいあうのを、避けていたのかもしれない。いずれにせよ、そのことを漠然とではあっても知っていた常夜灯のような覚めた一点がじぶんのなかで明滅していたことを、もうひとりのじぶんがどこからか見ていたことも、ほんとうだ』-『皇帝のあとを追って』 ...
『時間が満ちていなかった、いや裸なじぶんに向かいあうのを、避けていたのかもしれない。いずれにせよ、そのことを漠然とではあっても知っていた常夜灯のような覚めた一点がじぶんのなかで明滅していたことを、もうひとりのじぶんがどこからか見ていたことも、ほんとうだ』-『皇帝のあとを追って』 本の中の人物の物語に、自らの来し方を思わず準えてしまいたくなること。それは本読みであれば誰にでも起こる一つの誘惑だろうと思う。大抵の場合、それは共感から始まる。ああ自分もそう思う、自分もそうだった、という風に。その感覚は決して嘘ではない。しかし必ずしも真実というわけでもない。どれだけ過去の自分を客観的に捉え直そうとしてみても、記憶は無意識のうちに上書きされる。結果を知っているが故に成立する因果に従って、文脈すらも再解釈されてしまうだろう。それは如何に優れた文筆家であろうとも、やはり起きてしまうことだろうと自分は思う。あの須賀敦子にさえも。しかし、そう理解した上で、須賀敦子がこの本でやってみせたことには、自分を圧倒する何かがある。それはがむしゃらでひた向きな、愛、と言えるもののようにも思えるのである。 愛は偏執である。そして、放って置けば一定に均される水面に懸命に段差を付けようとする類の無為の行為ではない、と言い切ることが難しいものであるようにも自分は思う。それが可能なことであるのかどうかを吟味すれば、理性的には取り組む筈もないと思えるようなことに自らを駆り立ててゆくような行為である、とさえ自分は思う。須賀敦子が為そうとしていることはそんなことであるとも思うのである。 それが実を結んだか否かを問う必要は必ずしもない。愛は無償である。しかしその背中を追うと一つのことが見えてくるような気がする。須賀敦子の準えの対象はマルグリット・ユルスナールである。そしてそのマルグリット・ユルスナールもまた、この作家の人生をハドリアヌス帝へ準えていて、その偏執的な愛が入れ子のような構造になっている。それは一見、過去へ過去へと遡って自身を投影してゆく流れのようにも見えながら、実際には何かが過去から現在へ受け継がれている流れとも、またみることができるように思う、という点だ。それゆえ、過去への切実な愛の投影を続けるユルスナールに起こったことは、須賀敦子にも起こったであろうというように自然に理解され、更に言うならその須賀敦子の辿った道筋を文章を通して追う読者の身にも起こり得るだろうと感じられるのだ。言ってみれば、須賀敦子の文章を読むことで未来へのバトンが手渡されたような気になるのである。なにか勇気をもらったような気になるのだ。 須賀敦子は時に彼女をマルグリットと呼び、また一方でユルスナールと呼ぶ。それは可換な固有名詞であると捉えることもできるだろうが、意図を読み解こうとする余地も残されているとも思う。マルグリット、と著者がその文学者を呼ぶ時、その対象となる人物は、現在の視点から見えている最終型の像を充足することの無い、少しだけ未熟な人物像として浮かぶ。一方で、ユルスナール、と須賀敦子がその人を呼ぶ時、そこに描かれているのは現時点で評価が確定している人物である印象が残る。その差、マルグリットに起きた変化が、その呼び名を意識しただけで急に大きく意識される。その変化こそがユルスナールがハドリアヌス帝の物語の中に見い出そうとしたことであり、須賀敦子がユルスナールの物語の中に見い出しながら、そこに自らを準えたことなのだと思ってみる。 だからと言って、須賀敦子自身は、自らの呼称を使い分けることはない。但し過去を史実風に書き下した後にユルスナールの物語を描き再び自分のことを語るという構図が、著者自らにもやはり大きな変化があったことを自然と物語るように思う。その変化が必ずしも過去の自分の基準に照らしてみて正当化されているか否か、という問題はある。そのことも著者は意識している。しかし最終的にはそのことによって自らが否定されることは、ない。人は変わってゆく。それならば正しさの基準もまた。そう理解した上で、変化はあったとしても、過去の自分の中に今の自分と通じる一つの線があることを発見する時、全ての変化とそれに伴う苦労は意味を為す、ということを須賀敦子は語るように思う。人はこの本の中で、ハドリアヌス帝の物語を読み、ユルスナールの物語を知り、そして須賀敦子の物語を読み解く。そして最後に自分の物語も再構築する。その全ての行為の原動力となる須賀敦子の愛は、とてつもなく強い。
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須賀敦子さん。 初めて、ちゃんと読みました。 ゆるやかで、しなやかな語り口が大好きです。 ご自身が文学の研究家であることもあり、それらの知識をふんだんに織り交ぜたエッセイです。 私は近代ヨーロッパの文学の知識は皆無なので、そのはなしだけを語られると、きっと読み続けられなかった...
須賀敦子さん。 初めて、ちゃんと読みました。 ゆるやかで、しなやかな語り口が大好きです。 ご自身が文学の研究家であることもあり、それらの知識をふんだんに織り交ぜたエッセイです。 私は近代ヨーロッパの文学の知識は皆無なので、そのはなしだけを語られると、きっと読み続けられなかっただろうと思います。 各題目の中に、ユルスナールの作品への須賀さんの想いが読み取れたり、特に好きなのは須賀さんが自身の過去に思いをはせて、そこにユルスナールを重ねて綴られている場面です。 手に取る瞬間が変われば、味わいもまた変わる作品だと思います。 職場に全集が揃っているので、少しずつ味わうようにしたいです。
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