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古道紀行(大和路) 大和路
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 保育社/ |
発売年月日 | 1994/07/31 |
JAN | 9784586613076 |
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古道紀行(大和路)
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仁徳天皇陵と難波宮を見てきて竹内街道に興味を持つ。竹内街道は仁徳天皇陵の北を通っているが、今回は行けなかった。古代の雰囲気が残っているのは県境付近の太子町と奈良県側のようだ。いつか行ってみたい。難波宮隣接の大阪歴史博物館前の公園にはここから堺市金剛までの道が難波大道だとの説明版が...
仁徳天皇陵と難波宮を見てきて竹内街道に興味を持つ。竹内街道は仁徳天皇陵の北を通っているが、今回は行けなかった。古代の雰囲気が残っているのは県境付近の太子町と奈良県側のようだ。いつか行ってみたい。難波宮隣接の大阪歴史博物館前の公園にはここから堺市金剛までの道が難波大道だとの説明版があった。 メモ 竹内街道 写真:山田地区 「日本の古道を歩く」(太陽の地図帳)にのっている太子町の写真とアングルが同じものだった。撮った人は別。ここが撮影ポイントなのか。30年前の写真。 文p142-157 飛鳥時代、葛城から山1つこえた河内は、渡来氏族の多く住む「渡来帰化人の故郷」だった。「新撰姓氏録」には124の渡来氏族を数えが、このうち河内に本貫(本籍)を持つ人々は72氏、およそ6割が河内に定住していた。 欽明天皇14年(553)、曽我稲目が勅を奉じて王辰爾を難波の津へ派遣し「船の賦を数え録す。即ち王辰爾を以て船長とす。因りて姓を賜ひて船史とす(紀)」とある。船氏はこの時以来、蘇我氏と強く結びつき、海上交通を支配下。曽我氏は海上交通の支配、すなわち貿易により強大な富を手中にした。また仏教を受容したのは渡来種族を配下にかかえる開明的な性格によるだろう。 海外への津(港)は淀川河口だった。推古天皇(在位593-628)は飛鳥の朝廷と難波の津を直結する大道(おおち)を建設したと伝えるが、この時の摂政は聖徳太子(574-622)で、大臣は蘇我馬子(稲目の子)。馬子は用明、推古の二帝にとって母方の伯父、聖徳太子には大伯父であると共に、妃が馬子の女(むすめ)だから岳父にあたる。つまりこの時代は後の藤原氏に擬していえば、蘇我時代であった。 朝鮮半島・大陸に直結する大道は蘇我氏が建設を推進し、河内の船氏が船を統轄して文化と先進技術を盛んに移入した・・・竹内街道が、その大道であった。江戸時代に入ると大和~河内間の物資交流ルートとなり、河内側からは伊勢参宮、大和側からは聖徳太子信仰の太子みちとして往来が多かった。 (太子町)山田の集落から西へ2キロのところに聖徳太子の磯長陵がある。明治13年、宮内省で内部を実測。明治新政府が治定した天皇陵は記紀の記載にあてはめて、それらしい古墳を連結したらしい。聖徳太子は推古天皇15年(607)に小野妹子を隋に送った。翌年隋使を伴い帰った。その時通った道が竹内街道である。 大阪府太子町・竹内街道 グーグルへのリンクがあり、古道は竹内街道歴史資料館から西へ続く細い道が古い街並みのようだ。 https://www.town.taishi.osaka.jp/kanko/taishijikkei/takenouchikaido.html 竹内街道・横大道 活性化協議会 http://www.saikonokandou.com/ 街道を歩く竹内街道(歴史街道協議会) https://www.rekishikaido.gr.jp/kaido/takeuchi/ 小山和(こやまかず)1925大阪生まれ。日刊自動車新聞京都支局長、東京本社企画次長 月刊モータリスト編集長ののち、1961旅行作家として独立。 1994.7.31発行 図書館
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