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通りすがりの男 ラテンアメリカ文学選集11
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通りすがりの男 ラテンアメリカ文学選集11

フリオコルタサル【著】, 木村栄一【ほか訳】

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通りすがりの男 ラテンアメリカ文学選集11

定価 ¥2,530

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商品詳細

内容紹介 内容:光の加減.貿易風.二度目.あなたはお前のかたわらに横たわった.ボビ-の名において.ソレンティナ-メ・アポカリプス.舟、あるいは新たなヴェネツィア観光.赤いクラブとの会合.メダル一枚の裏表.通りすがりの男.マンテキ-リャの夜. 解説 木村栄一著
販売会社/発売会社 現代企画室/
発売年月日 1992/11/30
JAN 9784773892185

通りすがりの男

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みんなの感想まとめ
  • 短編幻想文学
  • 現実と夢の交錯
  • 内面の葛藤
  • 社会的背景の反映
  • 狂気と死のイメージ
  • 読者を引き込む緊張感
  • 意外性のある結末
  • 幻惑的な世界観
  • 深い思索を促す物語
  • 通りすがりの男の影

現実と幻想が交錯する短編集は、深い思索を促す物語が詰まっています。11篇の収録作は、特に「光の加減」や「通りすがりの男」など、狂気や死のイメージを巧みに織り交ぜ、読者に強烈な印象を与えます。登場人物たちの内面の葛藤や、社会的背景を反映したストーリーが、時に不気味さを漂わせながらも、心の奥に訴えかけてきます。特に、ラストの意外性や、語り手の視点が独特の緊張感を生み出し、読者を引き込む要素となっています。全体的に、暗いテーマが支配する一方で、コルタサル特有の幻惑的な世界観が堪能できる作品群です。

※この内容はAIが作成したものであり、ブックオフ公式オンラインストアの見解や意図を示すものではありません。

2026/10/10

コルタサルの短編集を読むのは随分と久しぶりだけど、こんなにも暗い作風の作家だっただろうか。 「こういう話だろう」と思って読んでいた話が、どこかで現実世界に開いた裂け目に気づかぬうちに入り込んでしまい、思っていたのと違う結末にたどり着いてしまう。 そんな現実の危うさみたいな雰囲気は...

コルタサルの短編集を読むのは随分と久しぶりだけど、こんなにも暗い作風の作家だっただろうか。 「こういう話だろう」と思って読んでいた話が、どこかで現実世界に開いた裂け目に気づかぬうちに入り込んでしまい、思っていたのと違う結末にたどり着いてしまう。 そんな現実の危うさみたいな雰囲気は過去に読んだ印象と変わらない。 しかし、本書収録の短編の多くは挫折や失敗を思わせるものが多く、全体的に沈鬱な印象を受けた。 「光の加減」★★★ 手紙から始まった男女の恋愛。会う前に手紙の文面から勝手に想像していた相手と、会ってみたら印象が違っていた。それはそれとして受け入れたはずだったが、どうしても過去に抱いていた印象がちらつき・・・・ 「貿易風」★★★★ マンネリ化したカップルが、新鮮な体験を求めて他人同士のふりをして同じリゾート地にバカンスへ出かける。さて、そのバカンスを満喫したがその帰り道・・・?これは結末において何が起きたか掴みかねているのだけど、単にそういうことをしていたのは彼らだけではなかったという話か? 「二度目」★★★ こういうモチーフの短編は割とよく読む気がする。カフカ的な悪夢を感じる。ブッツァーティの「七階」なんかと似てるよね。こちらは"二度目"だからもっと展開早いけど。 「あなたはお前のかたわらに横たわった」★★★ 人称の使い方が独特だけど、単なる親離れ子離れの話?なのか?狙いがよく分からんかった。 「ボビーの名において」 これはこちらの完敗。結局ボビーが見ていた悪夢はなんだったのか分からず、結論も何だか分からず。 「ソレンティナーメ・アポカリプス」★★★★ 何ということのない日常から、気づかぬうちに幻想世界の裂け目に足を踏み入れてしまっていたパターン。でもこういう話を書かせると本当に上手い。 「舟、あるいは新たなヴェネツィア観光」★★★ 解説にも難解と書かれていたが、バレンティーナが襲われていた"不安"の正体が結局分からず、確かに難解だと思う。表面的には起こっている話は旅先でのアバンチュールでしかないのだが。 「赤いクラブとの会合」★★★ 会合も何も・・・・ねえ。これも入ってはいけない裂け目に気づいたときには落ちていたパターン。 「メダル 一枚の裏表」 これも結局分からなかった。自分をうまく表現することのできない男女のすれ違いの話、というだけでないのだろう。これも人称の使い方が特徴的でそこにヒントがあるのだと思うが・・・・ 「通りすがりの男」★★★ ハードボイルドな世界観の話。これは随分極端に悪夢的な内容。やはり失敗の物語。 「マンテキーリャの夜」★★★★ こちらもハードボイルドな世界観。しかし、この話はきわめて現実的な方法で、たどり着くべき結末に向かわない道へ気づかぬうちに滑り落ちてしまった話。やっぱり暗い。

Posted by ブクログ

2018/01/04

 実は本書を読むのが少し怖かった。  発表されたのが1977年で、あの「文学青年コルタサルが残した最後の短編集」と言われた「八面体」の発表から3年後であり、フリオが政治活動にドップリと浸かっていた時期と重なっていたからだ。  資料を読む限り、彼の政治活動は決して褒められたもの...

 実は本書を読むのが少し怖かった。  発表されたのが1977年で、あの「文学青年コルタサルが残した最後の短編集」と言われた「八面体」の発表から3年後であり、フリオが政治活動にドップリと浸かっていた時期と重なっていたからだ。  資料を読む限り、彼の政治活動は決して褒められたものではなかったようで、そんな状況が作品に影響を及ぼしていたら、読むに堪えないだろうなと漠然と考えていたからだ。  でも読み終わった今、そんな心配は杞憂に終わった。  全部で11編からなる短編集。  半分ほどは恋愛に関する内容である。  恋愛に関する、とはいってもフリオ・コルタサルのことだから、一筋縄ではいかない。  まるで近親憎悪を感じるような、身に覚えのある罪悪感に似た「光の加減」があったり、登場人物が入れ替わってしまう錯覚に陥る「貿易風」があったり、見つめる側と見つめられる側が最終的に反転してしまう結末が「山椒魚」を思い出させる「赤いクラブとの会合」があったりとバラエティに富んでいる。 「二度目」や「ボビーの名において」では得体の知れない不気味な雰囲気が漂っており、「ソレンティナーノ・アポカリプス」はルポルタージュ風な作品のなかに非現実的な出来事が起こる(他の方のレビューで知ったのだが、この作品は実際のルポルタージュ作品である「かくも激しく甘きニカラグア」の中の一編なのだそうだ)。 「あなたは、お前のかたわらに横たわった」などは実験的な人称を使用しており、読み辛さを感じるかも知れないが、一旦その手法に慣れてしまえば、あまり体験したことのない読書の楽しみを覚えると思う。  本書の中で一番長い「舟、あるいは新たなヴェネツィア観光」はフリオの古い作品に、一人の登場人物の独白を加えることによってメタ・フィクション的な面白さを持つ作品になっている。  この「舟、あるいは新たなヴェネツィア観光」に登場してくるバレンティーナ(独白をしていない方の女性)はフリオの長編「石蹴り遊び」の登場人物の前身であるとのことだが、残念ながらその「石蹴り遊び」を(「かくも激しく甘きニカラグア」もそうだが)読んだことがなく、購入しようにも絶版で、古本にはそれなりのプレミアがついていたりする。  復刻を切に希望します。   最初に書いたとおり、読む前はちょっと心配だったのだが、本当に面白く読み進めることが出来た。  誤字脱字が散見されたことのみがちょっと興醒めだったけれど、これはフリオの責任じゃないしね。

Posted by ブクログ

2013/04/03

詩はアンソロジーで読め、と言ったのは誰だったか。一冊の詩集には同工異曲のものもあれば、駄作もまじる。アンソロジーなら名詩ばかりで外れがなく、ヴァラエティーに富んでいるからだろう。同じことが短篇集にもいえる。一人の作家の持つ様々な持ち味を一冊の本の中に並べてみせることができる。 ...

詩はアンソロジーで読め、と言ったのは誰だったか。一冊の詩集には同工異曲のものもあれば、駄作もまじる。アンソロジーなら名詩ばかりで外れがなく、ヴァラエティーに富んでいるからだろう。同じことが短篇集にもいえる。一人の作家の持つ様々な持ち味を一冊の本の中に並べてみせることができる。 フリオ・コルタサルはベルギー、ブリュッセル生まれのアルゼンチン人。幼少時に帰国し故国で育ち、三十代半ばで留学生として渡仏。その後パリ在住。そのせいか、他のラテン・アメリカ作家の書く物とは一味ちがう。一口で言えば都会的で繊細なのだ。小説の舞台もヴェネツィアやジュネーブといった有名な都市であったり、固有名を持たない街であったり、とラテン・アメリカの地霊に縛られていない。 丸谷才一がその書評の中で、モーパッサンの短編小説の結末のつけ方は評判が悪いと書いている。どんでん返しがあざといと嫌われるらしい。丸谷はナボコフはその裏を行ったと続けているのだが、フリオ・コルタサルの結末のつけ方も独特である。結末に至って、それまでよく分かったつもりで読んでいた物語がふと見えなくなる、というか、読み違えていたのだろうかという疑念が生じる、そんな感じ。 超自然や驚異、珍奇な物、事件といった非日常的なものはまず登場しない。そういう意味ではチェーホフ的かもしれない。多くは市井のアパートや酒場、避暑地のホテルといった日常的な空間に一組の男女を配置し、その心理の綾を語るだけだ。ただ、その人間と人間の間にあるずれが生む葛藤を摘出して見せる手際のよさ。読者はそこに人間存在の思いもかけぬ顕現を見て畏怖すら覚えてしまう。はっきりしない終わり方という点もチェーホフに似ているといえる。 すれちがいの恋愛譚あり、大人になりかける時期の微妙な少年心理を鮮やかに切り取ったスケッチ風のもの、アラン・ドロンという懐かしい名前も登場するフィルム・ノワール風の一幕もあり、と多彩な作品が揃っている。作家は短編小説を一枚の写真に喩えているという。たしかに、長篇小説とはちがい、人生の一瞬を切り取って掌の上に差し出してみせるという点で、短編小説は写真に似ているだろう。ただ、それは読者や見る人の知性や感受性を動かす導火線のような働きを持つものでなければならないともつけ加えている。 個人的な好みをいえば、手紙のやりとりで知り合った男女が、あらかじめ創りあげた互いの像にしばられて現実の相手を見失う「光の加減」や、倦怠期のカップルが他人を装って避暑地でのアヴァンチュールを楽しむ「貿易風」のような作品が、洒脱な味わいを醸し出していると思う。 異色なのは、作家がニカラグアの革命運動に連帯し、世界にその実状を訴えたルポルタージュ『かくも激しく甘きニカラグア』所収の一篇でもある「ソレンティナーメ・アポカリプス」だ。他のルポルタージュといっしょに読んだときにはずいぶん主観性を強く押し出しているな、とは思いながらも、作品中の「ぼく」を作家その人と思って読んでいた。ところが、短篇集に収められるとその中に登場する「私」(訳者が異なる)は、虚構の視点人物としか読めなくなるのだ。ニカラグアの湖に浮かぶ小島の住民描くところの絵を撮影したスライドをパリの自宅で上映していると、そこにあるはずのない虐殺現場を撮影した映像が次々と映し出されるという、一見平和な島の日常の裏に隠された混乱の続くニカラグアの現在を二重露出にして提示する手の込んだ一篇だが、こうして短篇集の中の一篇として読むと、ルポルタージュとして読んだとき以上の衝撃を受ける。これが物語の持つ力だろうか。 翻訳は若い訳者の下訳に木村榮一が手を入れたものだろうか。話者の語り口に特徴のある作家の個性をよく生かして読みやすい。

Posted by ブクログ

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